ウェインとフレッドは3人の新メンバーを入れて、MC5として再度ヨーロッパ・ツアーを試みようとするが、結局数週間で解散してしまった。フレッドはさらに、デニスとマイケルと共に "Ascension" を結成した。ベースに J. ヘフティを迎え、マイケルをボーカルにし、フレッドがギター、ドラムがデニスという4人編成だった。しかしこのバンドも7ヶ月で消滅する。

MC5解散前後からウェイン・クレイマ−もヘロインの中毒になっていた。バンドが消滅した喪失感と失意は大きく、彼はヘロインとアルコールの深みにはまっていく。デトロイト自動車産業の黄金時代はとうに終わり、経済は衰退して町は荒廃していた。ミュージシャンの仕事も激減したばかりか、デトロイトのバンドマンの多くが音楽をあきらめ、車の組立ラインに並ばなければもはや生きていけなかった。あるアメリカ人評論家がいみじくも書いたように「いまだかつて、人々がこれほど多くの、偉大なミュージシャンによって生産された車に乗った時代はなかった」のである。市内で犯罪が多発する中、ウェインは法と秩序の外で生きる犯罪の世界に魅力を感じるようになり、1974年冬からコカインを売りさばくようになる。

それでも彼はバンドの活動は続けていた。同じくデトロイト音楽シーン出身で成功を納めていたミッチ・ライダーと73年に"The Knockdown Party Band" を結成、これは短命に終わったが、やがて "Kramer's Kreemers" というトリオを結成、このバンドは後に "The New MC5" と名乗るようになり、しばし脚光を浴びた。メンバーは下記の通り。

ウェイン・クレイマー(G/V) / ティム・シェフ(B) / メルヴィン・デイビス(D)

ところがウェインは、75年6月連邦麻薬取締局のオトリ捜査にかかって麻薬密売で逮捕されてしまうのである。1976年4月、彼は有罪の実刑判決を受け、4年の刑期を務めるためにケンタッキー州レキシントンの連邦更正施設に送還された。ロブ・タイナーが "MC5" として全く違うメンバーを集めてミシガン州で活動を開始したことを彼が知ったのはこの獄中だった。

ロブ・タイナーは、MC5解散後、プロデューサー/ライターに転身し、デトロイト郊外の町バークリーに住んで地域のアート・コミュニティーのリーダーとして若いアーティストを指導したりしていたが、1975年 "Fireworks" というバンドで突如音楽シーンに復帰、デトロイト近辺でジャズ/ロックで出演していた。

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76年秋に、地元出身のギタリスト、ロバート・ギルスピ−と知り合い、ドラムとベースを加えて77年4月正式に"Rob Tyner Band" を発足させたが、MC5を名乗らなければギグをブックしてもらえず、やむなくその名前で活動していた。ロブ・タイナ−・バンド/MC5はデトロイトでかなりの人気を得、ギグ会場は常に満員だったという。ロブ・タイナー・バンドのメンバーは次の通り。

Photo courtesy of Motor City Music, LLC
Rob Tyner (Vo) / Robert Gillespie (L. Gtr) /
Bill Wimble(L. Gtr) / Mike Marshall (Bs) / Ralph Serafino (Dr)


77年8月10日に行われたデトロイトのクレイマ−・シアターにおけるライブを収録した、"Rock and Roll People" というアルバムが1999年10月、モーター・シティー・ミュージックから出ている。これは数曲のボーナス・トラックを加えて2001年6月、日本のキャプテン・トリップ・レコーズから日本盤がリリースされた

ロブのMC5のことを拘置所で知ったウェインの怒りと焦燥感は大きかった。彼は獄中からロブ宛に激しい抗議の手紙をしたためる。無理もない、ロックに興味を失いバンドに背を向けてヨーロッパ・ツアーへの同行を拒否し、末期症状に苦しむMC5に決定的打撃を加えたのは他ならぬロブだった。それが事もあろうに、「ウェインの」バンド、MC5を名乗っているのだ。

しかしロブ・タイナ−・バンドも78年終わりには解散。ロブの関心はヨーロッパに移り、NME の招きでしばらくイギリスに滞在し、同紙にパンク批評を書いたりしていた。この時パンクのゴッド・ファーザーとして、ピストルズ、クラッシュ等多くのパンク・バンドと親交を深め、エディ・エンド・ザ・ホットロッズとは、シングルをリリースしている。

その後80年代に入るとデトロイトに戻り、ヴァーティカル・ピロウズ、オレンジ・ラフィーズといったローカルなバンドのプロデュースをしたり、スコット・モ−ガンのギター・アーミーに加わったりしながら1990年にはソロ・アルバム "Blood Brothers" を出した

1991年エレクトラは、アルバム「キック・アウト・ザ・ジャムズ」のCD化リイシューを行う。"motherfucker" をそのまま入れたオリジナル・バージョンで、そのライナー・ノーツを執筆したのがロブである。ひとつの文学作品と言ってもいい美しい文章である。

左は69年にリリースされたキック・アウト・ザ・ジャムズ、オリジナルアルバムのジャケットとして当時ゲイリー・グリムショウがデザインしたもので、バンドやシンクレアはこのデザインを採用するつもりだった。ところがエレクトラが、同社の他のLPと統一性のあるデザインにしなければならないとの理由でボツにしてしまったのである。しかし91年のCD化に際しては、エレクトラはこれをインナー・スリーブとして使用している。

しかし結局ロブ・タイナーはそのリリースを待たずに、1991年9月18日、生まれ故郷ミシガン州ファーンデイルで、駐車中の車の中で死亡する。心臓マヒ、46歳だった。野獣の獰猛さとしなやかさを兼ね備えた類まれなシンガー、生粋のアーティスト、ロビン・ダ−ミア−・タイナ−。その澄んでパワフルな歌声は、MC5の大音響の中、マイクなしでも聴こえたという。ステージを降りた彼はそのパフォーマンスとは対照的に、静かな口調で話す物腰の穏やかな人物だった。他のメンバーが多かれ少なかれロック・ミュージシャンの特質によって行動していたのに比べ、彼はバンド在籍中も読書と家族を愛した。Blood Brothers の中には "Gande Days" という印象的なトラックが入っている。「タイムマシンがあったら、グランディ・ボールルームの日々に戻りたい」と歌われている。

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