「MC5」の名から離れられず、ギグでも必ずファイブ時代のナンバーを入れていたロブとウェインとは対照的に、フレッド・スミスは後ろを振り返らなかった。彼の関心はミュージシャンとしての次なるフェーズにあった。アセンション (「昇天」を意味する。J. コルトレーンのアルバム・タイトルから取ったと思われる)解散後、彼はマイケル・デイビスと共にスコット・モ−ガン・グル−プに加わった。マイケルは間もなく抜けたが、スミスとモーガンのこのバンドは1976年までに "Sonic's Rendezvous Band" (ソニックス・ランデブ−・バンド)に発展した。いわばデトロイト・ロックのドリーム・チームである。メンバーは右の写真左から次の通り。
ベ−ス/ゲイリ−・ラズムッセン(Ex-アップ)
ギター/フレッド・スミス(Ex-MC5)
ギター/スコット・モ−ガン(Ex-ラショナルズ)
ドラム/スコット・アッシュトン(Ex-ストゥ−ジズ)

しかし時代はフレッド・スミスのようなクリエイティブなミュージシャンにとって完全に逆風だった。この頃ミシガン州全体が1つのブッキング・エージェンシーに牛耳られ、過去のヒット曲のカバー・バンド以外はほとんどブックしてもらえなかったのである。多くの才能あるミュージシャンが、生きて行くためにそれに甘んじた一方で、ソニックス・ランデブ−・バンドは毅然としてオリジナル・ナンバー中心のセットを演奏し続けた。フレッドはMC5のナンバーさえ1曲もやらなかったのである。結果彼らはバイカ−・バーのような小さな場末の小屋でしかギグを行うことができなかった。レコード会社からいくつか契約を持ちかけられたが、全てアーティストを侮辱するような内容のものだった。SRBはこれを拒否した。そして76年3月、フレッドは1人の女性と運命的な出会いを果たす。

パティ・スミスをフレッドに紹介したのはパティ・スミス・グル−プのギタリスト、レニ−・ケイだった。その日ソニックス・ランデブ−・バンドは、パティのコンサートで前座を務めたのだ。彼女はフレッドを一目見て、自分にはこの男しかいない、とわかったという。彼と初めて会った時のことをニナ・アントニア(ジョニ−・サンダ−スのバイオグラフィ−等で知られる)とのインタビューで彼女は細部にわたって語っている。あのパティ・スミスが、実に女性らしく、ホレた男に初めて出会った時の状況をこと細かに覚えているのである。

77年11月ソニックス・ランデブ−・バンドは唯一の公式レコーディングを行う。"City Slang" という曲で、これは翌年シングルとしてリリースされた。傑出したバンドであったにも関わらず、彼らにはとにかくカネがなかった。アルバム1枚を録音する予算さえなかったのである。しかし フレッドが書いたこの名曲 City Slang は、やがて Kick Out The Jams と肩を並べるデトロイト・ロックの金字塔となった。

1978年夏、ソニックス・ランデブ−・バンドはイギ−・ポップのバック・バンドとして、ヨーロッパ・ツアーに同行した。しかし数カ月に及ぶツアーでバンドはすっかり疲弊してしまう。イギーには引き止められたが、彼らは帰国を決断しアメリカに戻った。デトロイトに帰ったフレッドはさらに、バンドの主導権をめぐるスコット・モ−ガンとの確執や新しい音楽的興味などからソニックス・ランデブ−・バンドを離脱した。

この頃までにフレッドとパティはステディになっていた。1980年2人は突如結婚して周囲を驚愕させる。友人の間では「でも、パティは少なくとも名字は変えなかったぜ」というのがジョークになったという。2人は男と女として強く愛し合っていただけでなく、アーティスト同志としても深く尊敬し合っていた。そして結局、音楽ビジネスに関心を失い、静かに家庭を営むことを望んだ。パティはそのキャリアの頂点で突然、夫フレッドと共にデトロイト郊外セント・クレア・ショア−ズの湖畔の家に「隠遁」してしまったのである。スミス夫妻は2子をもうけ、地元のチャリティー・イベントなどにごく稀に姿を現わして「詩の朗読とサックスとクラリネット」といったパフォーマンスを行う以外、完全に音楽シーンからは姿を消してしまった。しかしパティはその後1988年にフレッドのプロデュースによる "Dream Of Life" をリリース、パティ・スミス名でリリースされクレジットされていたが、そのほとんどが実はフレッドが書いた曲であった。彼がどうしても自分の名を出すことを拒んだから、と彼女はあるインタビューで語っている。2人はまた、1990年に公開されたヴィム・ヴェンダ−スの映画 Until The End Of The World のサウンド・トラックとして "It Takes Time" という曲を提供した。

1991年フレッドは、心臓マヒで他界したロブ・タイナーの追悼コンサートに他のMC5メンバーと共に出演した。しかしこの時フレッドは既に何らかの病に侵されていた。全く生気がなく、ほとんど瀕死の状態だったとマイク・デイビスが後になって語っている。そして奇しくもロブと同じ運命がフレッドを襲ったのは3年後の94年11月4日であった。彼は自宅で心臓停止で倒れ、デトロイトのセント・ジョンズ・ホスピタルで死亡した。45歳だった。電話で感想を求められたウェイン・クレイマーはロサンジェルスの自宅から語った。「壊滅的ショックを受けている。完全に打ちのめされている。」

ソニックス・ランデブ−・バンドというスーパー・グループは長い間デトロイト・ロックの伝説だった。スタジオ録音されたマテリアルが皆無に等しく、その短い活動期間にライブで聴いた人しかそのサウンドを知らなかったからだ。しかしフレッドの死後数年を経て、未亡人パティ・スミスが、バンドのマネージャーをしていたフレディ・ブルックスに、ソニックス・ランデブ−・バンドのマテリアルを何とか形にしてくれないかと持ちかけた。残存するテープの編集作業はブルックスにとって困難を極めた。技術的にというだけでなく、当時のさまざまな思い出が嵐のように彼を襲い、こみ上げて来る感情や涙をこらえるのが難しく、作業は遅々として進まなかったという。

そして遂に1998年と99年に、相次いで2枚のライブ盤、"Sweet Nothing""City Slang" がリリースされたのである。これらが録音された当時、時代はパンクのミニマリズムのまっただ中、しかし全曲を圧倒するフレッドのギターはまばゆいばかりだ。聴く者は悲愴感さえ漂うリフの濁流に押し流されてソニックス・ランデブーの腹の中に呑み込まれていくだけである。

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