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激発

まさしく、MC5がステージでどういう動きをしていたかということは、重要であるにもかかわらずこれまで見過ごされてきた部分だった。彼等のハデなステージ・アクションとコスチュームは、このバンドが仕掛けた攻撃の中でも重要な位置を占めていたとトンプソンは語る。

「俺たちはもともとそれをやるつもりだったんだよ。つまり史上最高のロックンロール・バンドになるってことだ。俺たちがしたかったのはそれだったんだ。だがひとたび政治的活動が始まってメディアがそれを全国的に報道しちまうと、俺たちはジョン・シンクレアのバンドってことになっちまった。革命運動のバンドってことに。そうなると、もう否定できないんだよ、俺たちメディアに向かって「違う」って言えなかったんだ。『俺たちはそんなんじゃない』ってな。だってそんなことしたら事態はさらに混乱するだろ。そしてそのレッテルに捕われて身動きが取れなくなり、それが俺たちの烙印になり、俺たちを数々のトラブルに巻き込んでいったんだ。」

しかしこの映画の中でMC5のショーマンシップはそのような問題とは無関係に、文句なくすばらしい。

「ロブ・タイナーの足を見た?時々、まるで宙に浮いてるみたいに見えたでしょう?」レニは言った。

スチール写真とCDだけではMC5のセックス・アピールは十分には伝わってこない。彼らは全員、ハンサムで、ステージアクションはカッコよく、奇抜な服装に身を包み、美しい髪を持っていた。

「ウェインは本当に魅力的で、身のこなしも何もかもセクシーで. . . でも、女の子たちが心底魅了されたのはフレッド・スミスだったの。」レニは語る。

MC5のセックス・アピールをよく理解していた女性の1人にシンシア・プラスター・キャスター女史がいる。この女性彫刻家はMC5と同じくらい、ロック史における伝説的存在である。その彼女も、この映画とその制作者を高く評価した。

「ものすごく刺激的な作品だと思ったわ。」プレミアでのパーティーで彼女は語った。「私が登場しているこのテのドキュメンタリー・フィルムの中では、これまでで最高の出来だわね。」

アン・アーバーにあるトランス・ラブ・エナジーの家を映画の中で再び見たことで、シンシアは強いノスタルジアを感じたという。

「あの家を最後に見たのは30年以上前よ。しかももっと暗くなってから、夕方遅い時刻だった。確か夜になってから彼らのペニスの型を取りに地下室に降りて行ったの。そして翌日の早朝にはシカゴへ向かう飛行機に飛び乗らなければならなかった。あの頃私はキー・パンチャーの仕事をしていたから。」

頂点へ . . . そして苦しみながらの倒壊!

そしてバンドはどうなったのか?2人が死に、生き残った3人全員がヘロインの中毒になった。バンドとその仲間を待っていたのは死、薬物中毒、仲たがい、そして監獄だった。連帯感の、友情の、あるいは同朋意識の結末がこの喪失感か?なぜこんなに大きな苦しみを味わわなければならないのか?

バンドを襲った数々の悲劇が虚飾なく描写されている一方で、この映画は喜びの祭典という角度からも観ることができる。

ある人々にとってこの作品を観ることは若き日の楽しい日々に立ち返るタイム・マシンに乗るようなものだ。

「これらのことが進行していた当時、あの経験は本当にすばらしかった。この映画を観ていてあの感覚を思い出したわ。聴衆の1人に溶け込んで、もう何がどうなってもいいって気になるの。今ではもうああいう状態はならないわね、だからあの感覚を取り戻すのは楽しかったわ。」

他の人間は、制作者の細心の配慮のもとにストーリーの終焉へと導かれる。

「制作者はこの物語に完全にのめり込み、最終的にはストーリーの一部なっているの。デビッドとローレルはこの映画を製作することによって、切れていたサークルをつなぎ合わせたのよ。彼らこそがこの物語の結末なの。」タイナーは言った。

MC5に関しては、つい「もしあの時」ゲームをやりたくなる。あの時ジョン・シンクレアが逮捕されなかったら?バンドがあんなにシンクレアにのめり込まないでいたら?メンバーの内の1人でもヘロインと無縁でいたら?

トンプソンはしかし、そういう考え方を否定する。MC5に関して「もしあの時」はあり得ない、と彼は言った。あのバンドは崩壊する運命だったのだと。それがMC5の進むべき道だったのだと。でなければ、彼らは全く違った別のバンドになってしまっていただろうと。

この映画に対するクレイマーの評価は淡々としたものである。

「これはずっと昔に起こった俺の人生の一コマであって、俺の人生を定義するものじゃない。俺は過去に生きてるわけじゃなく、現在を生きなければならないわけで、そこが今の俺が存在している場所なんだ。」と彼は語る。「実際、俺の人生イコールMC5じゃない。俺が若かった時の生活がMC5だったということで、ただそれは成長という観点からはものすごく重要な時期であり、今日の俺を形作ったものの一部ではあった。」

「あの映画が俺の人生そのものであるはずはないし、俺が外の、社会に出て行うことは俺の人生じゃない。俺の仕事は俺の人生じゃない。ギターを弾くことが俺の人生なんじゃない。」「そういうこと全て、本当はどうでもいいことなんだ。」とクレイマーは言う。

「実証」の公開によって、MC5の一般的認知度が高まるだろうか?そうなればデイビスは喜ぶだろう。

「ミステリアスなのもいいよ。この物語を知ってるのは限られた人間だってのもいいだろう。しかし一方で、少なくとも俺にとっては、MC5が何だったか、どういうことをしたのか、一般の人たちに知ってもらえることの方がずっと嬉しいね。」

「音楽ビジネスに別れを告げたわけじゃない。それは俺の選んだ道であり、音楽を演奏して人に聴いてもらうということが今も俺のやってることだ。だから認知されるってのは現在の俺の職業にとってもプラスなわけだ。この映画が興業的にもヒットすればいいと思うよ。」

こういう作品に対するニーズは確実にある。

「MC5に対する認識はこれまでで今が一番高いと思うね。」デイビスは言う。「国際的、世界的、地球的レベルで見て、MC5を知ってる人間の数はこれまでになく多いと思うよ。」

「すごくハッピーだよ、満足してる。もちろんこのバンドが解散したことで何十年も悲嘆に暮れてたけど、それは自業自得だったんだから辛抱して当然だった。事実は事実だから。」デイビスは語った。

確かに、そういう暗い事実も最終的にはどうでもいいんだろう。ベッキー・タイナーは地元デトロイトの若いバンド、ザ・キング・スネイクスのことを話してくれた。このバンドは、ベッキー自身そして彼女とロブの間に生まれた末娘、エリザベスが通っていた高校の卒業式イベントで演奏したのだが、MC5のカバー、「シスター・アン」を演奏し始めた時、警官がステージに上がり音量を下げるように命じた。バンドはいったん了承したものの、そのままの状態でプレイし続け、警官たちはまた戻って来てしまったという。

だから、歴史は繰り返す。モーター・シティーの若者は、権力に疑問を投げかけ、自分の居場所を見つけようとして、ラウドなエレキ・ギターに救いを求めるのである。デトロイトでも他の場所でも、人々は相変わらず、闇の中で離散し、また集合し続けるのである。

ブライアン J. ボウイ
2002年10月

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