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ブライアン・J. ボウイによる記事(2002年10月)
CREEM より転載許可
Written by Brian J. Bowe for Creem
Reprinted/translated by permission of the author and the magazine

闇の中で驚愕を共にしよう!

MC5の物語が大スクリーンで語られる時がついに来た!

ロブ・タイナーが「カム・トゥゲザー」の歌詞で、「全てのダンスの源であるダンス」と書いた時、それは性行為を指していたのだ。性行為によって新しい生命が生まれ、生命はそれ自体がダンスである。それは離散と集合のプロセスに似ている。

過去ほぼ40年の長きにわたり、MC5は離散と集合の過程を繰り返してきた。ファンの支持に関しても同じことが言える。そして今、ドキュメンタリー・フィルム「MC5:実証」が各地のフィルム・フェスティバルで公開されるのを機に、このバンドは再び人々に認識されつつある。

「断片的ながら核心をついた作品だ。ホームランさ。」ギタリスト、ウェイン・クレイマーはロサンジェルスの自宅から電話で語った。「起こったこと全て、エピソード全部、ドラマチックな出来事全てをカバーするのは不可能だ。語られていない部分もある。だが全般的事実としては、この映画は真実の物語だよ。」

シカゴ・アンダーグラウンド・フィルム・フェスティバルでの初上映に先立って行われたパーティーで、MC5のドラマー、デニス・「マシンガン」・トンプソンは、この作品の正確さを賞賛する。

「全ての要素が盛り込まれてると思うね。最初から最後まで可能な限り正確さを追求しているという点で、この映画の制作者は正しいことを行なったんだ。」その上で彼は、MC5の物語を伝えることの困難さを付け加えた。

「俺にはものすごく難しいよ、最初から最後までちゃんと話すのは。忘れちまってる部分が多いから!」と、トンプソンは笑った。「ここに描かれてるものはまさしくMC5のストーリーさ。バンドがどういう風に始まり、どんな風に発展していったのか、あの全ての栄光、全ての悲しみ、悲劇。すごく気に入ったね。偉大な物語さ。」

ベーシスト、マイケル・デイビスは、この映画には普遍的なテーマがあるという。

「劇場のスクリーンで見たらこいつがどんな物語として映るのか、最初は見当もつかなかった。2時間のストーリーとしてどんなシロモノになるのか、全然想像できなかったんだ。」デイビスは語った。「だが、ある意味でこの映画は普遍的な物語だね。つまり若者について、彼らがどんな風にものを考え、野心や理想を抱いて行動に移していったかということを描いたストーリーなんだ。」

MC5が仕掛けた「既成のカルチャーに対する全面攻撃」の主犯格は、この3人に加えてボーカルのタイナーとギタリストのフレッド・「ソニック」・スミスである。ハイ・エナジーな音楽、ラディカルな政治思想、マリファナの使用とセックス・アピールというパワフルな組み合わせにより、彼等は大きな足跡を残した。しかし音楽史の上では、多くの点でこのバンドが日陰の存在だったことは否めない。

蘇生

MC5はいつの時代においても、その影響を最も頻繁に言及されるバンドのひとつだった。数限り無いロック・スターやスター候補がMC5の名を挙げてきたのだ。ワーナー・ブラザースのティーン向けテレビドラマ「ギルモア・ガールズ」の中でさえ、登場人物がファイブの名を叫んでいた。だが、あるグループの間ではMC5崇拝が必須条件になっているとはいえ、そういう人間は依然として少数派に留まっている。60年代中期に結成され、最終的に不幸な苦い終局を迎えるまでの期間に、このバンドは後世のパンク・ロック、ヘビー・メタル、そして今日のガレージ・ロック・リバイバルの絶対的条件となったひとつの美学を確立したけれど、しかしその甚大な影響力が一般社会において広く認識されるということはなかったのだ。

監督デビッド・トーマスとプロデューサー、ローレル・レグラーは、あるビジョンに基づいて「実証」を製作した。この夫妻はこの物語を、「60年代に関する最後の偉大なストーリー」として位置付けた上で、断片的事実を収集する作業にとりかかったのだ。映像と情報収集、積極的に参加してくれた関係者に対する調査がこうして始まった。バンドと直接関わった存命の人々の参加を得て、調査はおおむね順調に進んだという。

「5、6年か6、7年前(製作が開始された当時)はまだ、この映画で有名になりたいって思ってたね。自分のそれまでのキャリアを、付け足しみたいな仕事で台無しにしたくなかったんだ。」デビッドはツーソンの自宅から電話で語った。

クレイマーはこの映画製作に全面的に協力したと述べた。作品の中でも彼の語りが話を進める中心的な推進力となっている。また、彼の支持を得たことで、制作者は新たな取材対象を得られることとなった。

「インタビューの多くをアレンジしたよ。」と、クレイマーは語り、元マネージャー、ジョン・シンクレアや、バック・イン・ザ・USAのプロデューサー、ジョン・ランドゥーなどは特に、彼の勧めがなければ絶対出演しなかっただろうと付け加えた。

デニス・トンプソンは制作者に関しては何の懸念も抱かなかったという。彼が不安を感じたのはむしろ、自分がどんなことをしゃべってしまうかということだった。

「何日か眠れなかったよ。どういう風に事実を表現するか、自分でも全く分からなかった。」彼は語る。「MC5に対して悪態をついてしまうのか?言っちゃいけないことをしゃべっちまわないか?だが実際始まってみると、俺はまさしく、語るべきことを語ったんだ。製作スタッフに対しては全く不安は感じなかったね。奴らとは友達になったのさ。」

ボーカリスト、ロブ・タイナーの未亡人、ベッキー・タイナーも、制作者は取材対象に親しくなったことで成功を得られたとも語った。

「初めてあの人たちに会った時、プロジェクトの概要を少し説明してもらったの。で、やがて彼等に対して信頼と友情を感じるようになったのね。それが時が経つにつれて本当に強い結びつきに発展して、彼等は私の人生にとってとても大切な存在になったのよ。信じられないくらいすばらしい人たちです。」と、タイナー夫人は語った。

問題は -- クレイマーは言った -- この映画を観たがる奴がいるか?ということだった。

「その疑問の答えを見つけなきゃならなかった。」と彼は語る。「この物語の中心人物の1人として、関心を持つ人間はごく僅かしかいないだろうってわかってたよ。ビッグ・バンドじゃないんだ。ゴールド・ディスクや世界中に何百万人といういうファンを持ってるポピュラー・ヒット・バンドの物語じゃない。内輪の話なんだよ。」

「だが最終的に制作者が選んだ手法として正しかったのは、彼等がこれを人間の物語として描き出した点さ。」と、クレイマーは述べた。「完璧めちゃくちゃな話、めちゃくちゃな人間たちを描いたストーリーってわけさ。」

集積

MC5の真実を突いているという点でこの映画は成功している。彼等は生意気なバンドだった、しかし単なるコナマイキなロック・ミュージシャンには留まらなかった。ハデに振る舞っていたその裏にはシリアスなビジネスが運営されていたのだ。

「MC5は伝説的バンドで、しかも急激に神話化しつつある。」トンプソンは語る。「俺たちみたいに社会に対する問題意識を持って活動していたバンドはロック史を見てもそう多くはない。MC5は政治状況を問題にし、道徳観念や検閲や人権、ドラッグ、ベトナム戦争に関するアメリカ人の意識の変革を訴えたんだ。俺たちはそういうこと全てに巻き込まれてたんだ。そういう問題を全部指摘してたバンドなんて、他にいやしないぜ。ロック史をひも解いたってひとつとしてな。テッド・ニュージェントだってやらなかった。ビートルズだってやらなかった。」

デイビスが映画の中で一番気に入っている箇所は、冒頭でクレイマーがバンドが結成された発端のエピソードを語る部分だという。どんなバンドにするか、その時クレイマー、タイナー、スミスの議論が白熱し、やがて深遠な会話に発展していくのである。

「俺にとってあのシーンはひときわ印象的だね。っていうのもあの光景こそがMC5というバンドの本質的要素を表現しているからなんだ。つまり何に関しても徹底的に反駁するってことだ。」

クレイマーも、その本質的要素を映画の中に取り込むことは重要だったと述べた。

「MC5が何かを体現していたとしたら、事実に対する観念、真実に正直であろうとする義務感だったと思う。」

制作者にとってだからこそ、関係者それぞれを不完全な人間としてありのまま描くことが重要だったのだ。

「ストーリー全てが完全に語られていると思うわ。それにあの映画に出てきた人はみんな、その人物の個性そのものだった。それぞれの人間が誰なのか、その本質を制作者は本当によく伝えていたと思うわ。」タイナー夫人は語った。

震撼

「実証」のハイライトの一つはバンドのレアなライブ映像である。VH1チャンネルのロック番組「クラシック」にMC5のビデオが登場したことがかつてあっただろうか?熱狂的MC5ファンでさえ、劣悪なブートで我慢してきたのだ。それに比べると、大スクリーンで見る鮮明な映像のすばらしさといったら、それこそ天啓と言えるほどである。

「自分たちがプレイしている場面を見ていて、ほんと、うっとりしたね。バンドと聴衆の間で何が起っているのか、当時そのままに感じ取ることができたから。」デイビスは語った。

まさしく珠玉のレア映像が目白押しなのだが、それらは一般の人々に文字通り全くの初公開であったばかりでなく、そのうちのいくつかはメンバー自身でも初めて目にするものだった。

「奴らは俺たちのことを8ミリで撮影したフィルムや、いい写真をたくさん手に入れたんだな。俺でさえ見たことがなかったやつを。それから関係者に行ったインタビュー映像だ。ファイナル・カットが出来上がるまで俺たち、全く見せてもらえなかったんだぜ。だからどういうものが作られているのか、メンバーの誰にも見当がつかなかったのさ。」トンプソンは語った。

映画のシーンの多くはレニ・シンクレアのビジュアルな感受性に負うところが大きい。彼女が撮影した写真とフィルムがこの映画の核心的役割を果たしている。そのレニでさえ、制作者が他のソースから見つけてきた資料のいくつかには驚かされたという。

「私が撮ったものは全てサウンドがないの。だから彼等は別々になっていた音楽と私の映像を符合させなければならなかったのよ。ものすごく細かい大変な作業だったと思うわ。長い時間がかかる仕事だけど、それをあの人たちはやってのけたのよ。」シンクレアは語った。

MC5は誇大評価されているのではないかと考える人間がいるとしたら、この映画は間違いなくそういう疑念を払拭するものである。

映画から見て取れることのひとつに、バンドのメンバーが互いの音楽的才能に対して抱いていた尊敬の念がある。デイビスは語る。

「俺はウェインに認めてもらいたくて弾いてたのさ、上達してるって分かって欲しくて。あるいは、俺にも少しは才能があるんだってフレッドにアピールしたくて。じゃなけりゃ、俺はオーケイだぜってロブに示したくて。」と彼は言う。「結果的に俺たちは自分たちの音楽を持っていきたい方向に発展させることができたんだ。斬新で、誰も予想もしなかった音楽に。俺たちはいつも互いに認めてもらいたくって練習し、上達しようと努めていたんだと思うよ。」

MC5/ホワイト・パンサー党に関わった数多くの人々、そしてファイブをリスペクトする多くのミュージシャンに対しインタビューが行われたが、そのフィルムの大半は結局使用されなかった。ストーリーはその代わりにバンドの直近の関係者と音楽とライブ映像によって進行していく。

「その点が心配だったのよ。つまり、MC5がかつていかに偉大なバンドだったかを語る人間達が次から次へと出てくるだけの映画になりはしないかっていうのが。でもそれは杞憂だった。制作者は音楽に物語を語らせたの。この作品で示されていることが正真正銘の事実だってことがすごく嬉しいわ。」レニは語る。

「あの時代を知らない、ブートレグのCDを聴く以外に彼等の音楽に触れるチャンスのない若い人たちには、すばらしいプレゼントね。MC5の音楽に傾倒する人は増えてきてると思うの。そしてついにみんな、このバンドが動いている姿を見られるのよ。」

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