2月、ファイブは英仏ツアーのためまずイギリスを訪れたが、その中にマイク・デイビスの姿はなかった。ヘロイン中毒のため彼だけデトロイト出発が遅れたのである。2月5日にはロンドン・スク−ル・オブ・エコノミックスで大事なギグがブックされていたにも関わらず、彼はついに姿を現わさなかった。デトロイト空港で出国を拒否され、予定していた飛行機に乗れなかったのだ。翌日やっと別の便で出発しバンドに合流したものの、他のメンバーはすでに彼を見限っていた。ヘロインのためマイクはもはや正常な判断ができない状態になっており、その後いくつかギグを行った後、ウェインはマイクにクビを言い渡した。後任にはイギリス人のデレク・ヒューズが加わり、ツアーの残り全て、彼がベースを弾いた。

同じ月彼らはフランスに渡り、エリート養成校の誉れ高いパリ郊外のビジネス・スクール H.E.C. (Ecole des Hautes Etudes Commerciales)の年次パーティーでギグを行った。若いエリート予備群にとってファイブのショウは余りにワイルドで、パーティーは混乱と騒乱のうちに終わった。その後イギリスに戻って幾つかギグを行った後再びフランスに渡り、3月、パリ郊外の有名スタジオ、エロゥヴィル・キャッスルにおいて最初で最後のスタジオ・ライブの録音を行なった。ピエール・ラティスとジェラルド・ジョーダン製作によるテレビ番組 Rock En Stock のサウンド・トラックである。ラティスはデビッド・アレンが結成したアート・ロック・バンド、「ゴング」のアルバム数枚を70年代にプロデュ−スした人物。この時のベースは Steve Moorhouse が担当している。このレコーディングはずっと後、1993年になってフランスのスカイ・ドッグからThunder Express としてリリースされた。燃え尽きようとするバンドが最後に放った未発表曲を含む6つのトラックはどれも秀作。

この英仏ツアーを終えてアメリカに帰国した後、彼らは8月に再び渡英してロンドンのウェンブリ−・スタジアムで行われた Wembley Rock'n'Roll Festival に出演した。チャック・ベリー、ジェリー・リー・ルイス、ボー・ディドリー、リトル・リチャ−ズら、超豪華キャストで行われたこのコンサートに集まった聴衆は6万人、そのほとんどがテッズ、つまりテディー・ボーイだった。ファイブのルックス、コスチュームを一目見て、ウェイン自身の言葉によると「奴らはもう、絶対的に俺達が気に入らなかった」という。結果、ステージに向かってテッズ達はビール缶を投げ始め、ロブが1本の缶を投げ返すという「クラシック・ミステイク」(ウェイン)を犯した後はもう雨のようにステージに向かって物が降り注いだ。

このコンサートの出演者の一人が元ト−ネイドスのベーシスト、ハインツ・バートだった。彼はこの頃トーネイドスを離れてソロ活動に入っており、そのバックを務めていたのが他ならぬドクタ−・フィ−ルグッドだった。それで、フィールグッドのメンバーもこのウェンブリーでのMC5を「目撃」したのである。ファイブはこの時期、すでにバンドとして終焉を迎えようとしていた。にもかかわらず彼らが与えたインパクトの大きさが、フィールグッドの公式バイオグラフィー、トニー・ムーン著の「ダウン・バイ・ザ・ジェッティー」に次のように記されている。

... この日は、フレッド・ソニック・スミスとウェイン・クレイマ−という2人の破壊的ギタリストを擁するデトロイトのプロト・パンクバンド、MC5が出演し、フィールグッドにとって忘れ難い日となった。同日に出演した他のバンドとMC5は全く異なっていた。フィールグッドのドラマー、ビッグ・フィギアは回想する。「一度見たら忘れられない奴らだった。凶暴なケモノみたいなんだ - まずギタリストからして、顔を金色に塗りつぶしてるんだぜ。それで黒いスーツを着てサングラスをかけてんだよ。」超保守派のテッズにとっては、こういう服装はロックでもロールでもなければ、それを受け入れられるはずもなく、やがて彼らはステージに向かって瓶や缶を雨アラレと投げ付け始めた。それらが降り注ぐ中、MC5は Tutti Frutti, Teenage Lust といった卓越したナンバー、そして The Human Being Lawnmower のような難解な曲を次々と演奏していった。

ギタリスト、ウィルコ・ジョンソンは直ちにファイブに魅了された。「僕はすっかり感動して、ステージのすぐ前をウロウロ行ったりきたりしていた。そしてこのバンドをしっかり見たんだ。彼らが自分達の音楽にすごい確信を持ってることがすぐにわかった。」2人のギタリストの異様な風貌に加えて、ウィルコはそのうちの1人が、ケイレンするような動作で急激に動いたり突如止まったりしながらステージ上を動き回るのに注意をひかれた。「あれいけるぞ、って思った。俺もあれ使うぞ、ってね。」

トニ−・ム−ン著「ダウン・バイ・ザ・ジェッティ」1997年ノースダウン出版(原文より訳出)

この頃、ニューヨークの老舗レーベル、ルーレットから "Live On Saturn" というアルバム名で2枚目のライブ盤制作のオファーがあったが、結局実現することはなかった。

このイギリス・ツアーを終えて帰国した後、11月にMC5最後となるヨーロッパ・ツアーが企画された。ところが出発3日前になって突如、ドラムのデニスが「行かない」と言い出す。彼はヘロイン中毒治療のためのメタドン療法に入っており、誘惑の多いツアーには同行したくなかったのだ。するとロブも「行かない」と言い出した。すでにバンドに興味を失っていたロブは、3年前から1年に1度は「やめる」と宣言していた。しかし、そんな直前にツアーをキャンセルできるはずもなかった。ウェインは語る。「イギリスで、ツアー初日のギグのステージに出て行こうって時に、ドラマーもいやしない、俺とフレッドだけなんだ!あとは俺達の曲を1曲も知らない子供みたいなイギリス人のベーシスト。そいつだって、その日楽屋で始めて会った奴なんだぜ!あのハンター・トンプソンの小説じゃないが、全く『恐怖と嫌悪』ってのはあのことだね。俺達は心底何もかもイヤになった。」ウェインとフレッドにとって悪夢のようなツアーになったのである。後年あるインタビューでウェインは「MC5最悪の思い出は何か」と訊ねられて、この時のヨーロッパ・ツアーを挙げている。

デトロイトに戻って間もない12月31日の大晦日、MC5はグランディ・ボール・ルームにブックされていた。かつて彼らが栄光を見たその場所にいたのは少数の客、薄暗い空間でほとんどが酔いつぶれていた。ロブとデニスが加わっていたものの、演奏は最低、悲惨だった。ウェインはロブとデニスがヨーロッパ・ツアーに同行しなかったことに非常に腹を立てていた。彼はセットの中程で「退場」した。

これがMC5最後のギグとなった。出演料はわずか500ドル。アメリカ中西部に君臨し、国家権力と闘ったカウンター・カルチャーのシンボル、アメリカ全土のバンドを恐れおののかせたMC5は、1972年12月31日崩壊した。

(Asked about Lou Reed and Iggy Pop)

"To me they represented the wild side of America...that was everything that I thought we should have in England. I didn't know if we had it in England or not, so at that time, I was borrowing heavily from American influence. But of course, coming filtered through this British system, it came out in more vaudevill, more Robert Smith (laughs) than er...MC5."

David Bowie - Transcribed from an interview with BBC

(ル−・リ−ドとイギ−・ポップの事を訊かれて)

「僕にとって、彼らはまさにアメリカの狂暴性を象徴していた。それこそイギリス人が持たなくてはならないものだと僕は考えたんだ。自分達がそういう特質を持っているのか、いないのか、全然わからなかったから、当時僕は必死でアメリカのものを取り入れようとした。でも、もちろん僕の中にあるイギリスの社会システムを通過して出てくるわけだから、できあがったものはなんだか寄席芸人みたいなシロモノになってしまったんだよ、ロバート・スミスみたいにね(笑)。MC5にはなれなかったというわけさ...」

デヴィッド・ボウイ、BBCとのインタビューより

6月17日、大統領選たけなわの深夜、ワシントンのウォーターゲート・ビルにある民主党全国委員会本部で5人の男が逮捕された。盗聴器を取り付け、資料をコピーしているところを発見されたのだ。彼ら全員がニクソン大統領の再選委員会のメンバーだったため、ホワイトハウスとの因果関係が取りざたされた。しかし同年ニクソンは民主党候補ハンフリーに圧勝し、再選された。

翌年、逮捕された5人の裁判が続く中、裁判長ジョン・シリカは主犯格マッコードからの書簡を受け取る。そこには当該事件がホワイトハウスによって仕組まれていた事が暴露されていた。ニクソンはそのような事実を否定したが、同年6月にテレビ放映されている上院公聴会において、大統領法律顧問、ジョン・ディーンはニクソン政権高官が全てを知っていたこと、さらに事件発覚後、その隠ぺい工作をニクソンが承認したことを全米国民の前で証言し、大統領の犯罪を決定的なものとした。しかもこの年、ニクソン政権はもう一つのスキャンダルで打撃を受ける。副大統領のスピロ・アグニュ−が脱税と収賄の容疑を認めて辞任したのである。アグニュ−こそ、ニクソン政権下でカウンター・カルチャー・ムーブメントに対する弾圧を強力に押し進めた人物であり、MC5にとっても「天敵」だったのだ。後任にはジェラルド・フォ−ドが就任した。

ニクソンは、ベトナム政策によって失った同盟諸国の支持を取り戻し、中ソとの関係も改善して、国内秩序と信用の回復を謀る。そしてついに73年1月、ベトナム停戦協定に調印した。

74年7月、大統領弾劾を審理していた下院司法委員会は、司法妨害、権力乱用、議会侮辱の3つの項目で弾劾採決をした。8月、追い詰められたニクソンは自ら辞任し、議会の弾劾裁判で解任される事をかろうじて免れた。アメリカ史始まって以来初めて、任期途中の大統領が辞任したのである。副大統領フォードが直ちに大統領に就任し、1ケ月後ニクソンに対して恩赦の措置を取りこの事件は落着した。

75年4月29日、サイゴン陥落。南ベトナム政府は崩壊し、25年間続いた戦争はアメリカ合衆国の敗北で終わった。

ベトナム戦争がアメリカ国民の精神に深い幻滅を与えたのと同じくらい、ウォーターゲート事件は200年の歴史を持つアメリカ民主主義に大きな汚点を残した。アメリカ国民は大統領に対する信頼を喪失し、また強大な権力をもつ行政府が伝統的な三権分立の民主政治を脅かす危険性が実証された。さらに、国家の安全保障を理由に前例のない強大な圧力がワシントン・ポスト誌に加えられていたことが発覚し、政府が言論の自由までも脅かしていたことが明らかになった。自由と平等の国という建国以来の理想を政府がいかに蹂躙していたか、ベトナム戦争の敗北による傷も癒えないアメリカ国民に、ウォーターゲート事件はさらに重大な精神的打撃を与えたのである。

ジョン・シンクレアやMC5らが標榜した反政府と反戦の思想は、かつて中高年の平均的アメリカ人には理解不可能で同意できるはずもない理念だった。しかし、71年のペンタゴン白書、続く72年のウォーターゲート事件、そしてベトナムでの敗北は、カウンター・カルチャーの思想が決して単なる「青春の暴走」ではないこと、醜悪な陰謀がアメリカを支配しているという現実を一般のアメリカ国民に知らしめる結果となったのである。

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