シカゴ民主党大会出演からエレクトラとの契約という一連の流れをメディアも無視できなくなった。MC5はローリング・ストーン誌(1月4日)の表紙を飾る。記事を書いたのはエリック・アーマン。彼は数日をMC5のコミューンで過ごし、紙面5ページにわたってその暮らしぶりと音楽をセンセーショナルに記述した。デトロイト出身のローカルなバンドに過ぎなかったMC5はこうして全アメリカの知るところとなったのである。

エレクトラは、グランディでの録音をまずシングルとしてリリースすべきだというファイブの主張に同意し、69年1月 Motor City Is BurningとのカップリングでEPがリリースされたこのシングルはたちまちミッド・ウエスト数カ所のAMラジオでナンバー・ワンとなる。


EPのヒットに気をよくしたエレクトラは、69年2月、直ちにLPをリリースした。アルバム "Kick Out The Jams" は数週間のうちにビルボード・トップ30にチャート・インし、その後28週間チャートに留まった。地元デトロイトのラジオ局CKLWではチャート第2位まで上る。

ファイブは、このデビュー・アルバムがメディアにどう評価されるか、かたずを飲んで見守っていた。ところがKick Out The Jams は、ローリング・ストーン誌、ビルボード誌他、当時の批評家から酷評されたのである。「チューニングの仕方も知らない」と評するものさえあり、5人の若者は深く傷付く。彼らは10代の頃から積み重ねたキャリアを持つ「プロ」のバンドだったのであり、演奏技術までも批判されたのは大きなショックだった。

アルバムのリリースを受け、バンドはウェスト・コーストへのプロモーション・ツアーに出た。シンクレアが企画し、費用もバンド側の負担であったこのツアーは、大失敗に終わる。ウェスト・コーストのヒッピー達に、彼らは全くウケなかったのだ。ヒッピーが好んだのは、宇宙や自然と対話するための軽いサウンドだった。工場地帯から現われたMC5のメタリックでへヴィーで、そしてとにかくラウドな音楽は彼らにとってほとんど脅威であり、そのあまりのエネルギーにヒッピー達はただ唖然とするばかりであった。グレイトフル・デッドをはじめ、ウェスト・コースト出身のバンドもファイブとのジョイントを拒否するようになる。

ホワイト・パンサーに対する政府の弾圧もさらに激しさを増していった。ホワイト・ハウスはホワイト・パンサー党のプロパガンダを読み彼らを「ロックンロールで青少年を腐敗させ、可能な方法全てを用いて社会転覆を謀ろうとしている分子」として位置付けた。そしてニクソン政権の司法長官ジョン・ミッチェルは、FBI長官エドガー・フーバーに対し、MC5というバンド及びホワイト・パンサー党を阻止せよという要請を発動したのである。

大ヒットとなったアルバム「キック・アウト・ザ・ジャムズ」でさえ、バンドを破滅に導く引き金になってしまう。原因は、タイトル・トラック "Kick Out The Jams" 冒頭の一言、タイナーが聴衆に向かって呼び掛けた "motherfucker" だった。この単語が1969年当時のアメリカにおいて、どの程度のインパクトを持っていたのか?あるウェブサイト上で読んだファンの回想によると、彼は母親の前で "Kick out the jams, motherfucker!" と言ったとたんに激しい平手打ちを食らったという。

初回プレス分のLPにはこの言葉がそのまま入っていた。エレクトラの社長ジャック・ホルツマンが「過激でウケるからこのまま使う」と主張したからである。躊躇したのはむしろバンドの方だった。ちょうど同じ頃レニー・ブルースが「猥褻」であると社会から激しく糾弾されており、それと同様の窮地に陥ることを避けたかったのだ。削除しないまでも、彼らは何かオーバー・ダブすることを要望した。しかしホルツマンは考えを変えることなく、結局そのままリリースしてしまう。その結果、彼が予想していたのをはるかに越える大きな社会的批判を呼び起こしてしまうのである。父兄からは抗議の電話が殺到し、大手レコード店はこのLPの販売を拒否する。

エレクトラは手の平を返したように急きょバンドに対し、"motherfucker" を "brothers and sisters" に入れ替えた「クリーン・バージョン」との差し換えを打診してきた。このバージョン、"Kick out the jams, brothers and sisters!" は、もともとシングル盤及びラジオ放送局用に録音され配給されたもので、グランディでのライブ録音にロブがマイナーなダブを加える作業を行っている最中、エレクトラのスタッフが言葉巧みにロブを丸め込んで録音させたのである。(しかし皮肉なことに、ラジオ局はかえってセンセーショナルな表現の方を歓迎し、クリーン・バージョンが放送されることはほとんどなく、DJは競ってオリジナル・バージョンの方を流したのだった。)そして、修正を要求するエレクトラに対し、MC5側は結局これを承諾してしまうのである。この時の妥協に関して後年デニス・トンプソンはあるインタビューで「非常にまずい決断だった。でも俺たちは若かった。」と語っている。ファイブは、ファンやコミュニティーのメンバーから「主義主張を曲げた」という誹りを受けかねない危険な決断を下したのだった。そして事態はさらに悪い方向に展開していく。

問題はロブが叫んだ "motherfucker" だけではなかった。見開きジャケットにはシンクレアの筆による政治的スローガンに満ちたライナーノーツが印刷されていたが、"motherfucker" という言葉はその中でも 使用されていたのである。そのためエレクトラは、バンドに通告することなく更なる改ざんを行う。ウェスト・コーストツアー中に、サンフランシスコにあるエレクトラの販売代理店に立ち寄ったシンクレアらは、会社側がロブの叫びを入れ替えただけでなく、シンクレアのライナー・ノーツをそっくり削除してしまったことを発見する。バンドにはもう手のほどこしようがなかった。これら大幅な改ざんはファンの非難を買い、反政府の姿勢も革命もウソで、有名になってカネをもうけたかっただけだと批判され、この時点で多くのファンが離れていった。しかもこうした修正にも関わらず、状況は好転するどころか結局キック・アウト・ザ・ジャムズを流通させた卸が逮捕されるという事態にまで発展するのである。

4月、猥褻性を理由にこのレコードの販売を拒否した大手スーパー、ハドソンズに対し、バンド側はローカルのアンダーグラウンド紙に "Fuck Hudson's!" の広告を出す。そしてハドソンズの窓という窓に同じメッセージを記したポスターを張り付けた。この広告にはエレクトラのロゴが使用されていたため、ハドソンズはキック・アウト・ザ・ジャムズのみならず、エレクトラの他のレコード全ての販売も中止してしまう。これがエレクトラの逆鱗に触れ、ついに1969年4月16日付でMC5との契約は破棄された。こうしてMC5は「品行不良」を理由にメジャー・レーベルを叩き出されたロック史上最初のバンドとなったのである。この時点でファイブはエレクトラからの2枚目のレコーディングのため、プロデューサーのブルース・ボトニックと共にロサンジェルスのスタジオに入っていたが、録音は直ちに中止された。バンドはその後マイアミ・ポップ・フェスティバルに出演するはずであったが、フロリダ州当局から「フロリダ州に1歩でも足を踏み入れたら逮捕する」と通告され、予定をキャンセルしてデトロイトに戻った。

こうしてバンドの運も尽きかけたかと思われた時、アトランティック・レコードの創始者ジェリー・ウェクスラーから契約を持ちかけられる。ウェクスラーこそ、50年代中期から数々のR&Bのヒット・レコードを世に送り出してきた伝説的人物であり、シンクレアのアイドルだった。シンクレアはこのオファーに飛びつき、ファイブは直ちにアトランティックにサインした。

しかし、この頃からバンドはシンクレアのもとで「革命」を背負いながらロックを続けることに疑問を持ち始める。ブラック・パンサー党が武装していることを理由に、シンクレアはホワイト・パンサーも銃を持つべきだと主張し始めていた。反政府宣伝の道具になってしまった自分達の姿を5人が冷静に見つめるようになってきたところに、アトランティックの意向もあって、ついに6月、ジョン・シンクレアはマネージャーを解雇され、J.C.クロフォードらホワイト・パンサーの他の側近もロード・マネージャーなどの職を追われた。さらに翌月シンクレアを待っていたのは、たった2本のマリファナ所持による懲役9年半の実刑判決だった。当時の常識からしても法外な判決であり、シンクレア封じ込めを狙った当局の意図は明白だった。彼は7月28日、サウス・ミシガンにあるミシガン州刑務所に送還され服役を開始する。

時期を同じくしてファイブは、イースト・デトロイトにあるGMスタジオに入り、ジョン・ランドゥーのプロデュ−スのもと、2枚目のアルバム、"Back In The USA" の録音に入った。ヒル・ストリートの共同住宅にも別れを告げ、バンドはミシガン州ハンブルグにある邸宅に引っ越した。ついにMC5は2年半ぶりに、革命と闘争の呪縛を逃れ、純粋に「音楽」のみを追求する環境に戻ったのだ。ところが、このプロデュ−サーこそ、MC5ファンならほぼ誰もが「あそこでジョン・ランドゥーがプロデュ−サーになったのは、災難としか言いようがなかった」と、ほぼ満場一致で認める結果を生み出すことになる。MC5はどこまでも「運の悪いヤツら」だったのだ ...

一方AMGはこの年、67年にリリースされた I Can Only Give You Everything/One Of The Guys のB面を I Just Don't Know にスイッチしたシングルをリリースした。

A:I Can Only Give You Everything/B:I Just Don't Know (AMG AMG-1001)

ウェイン・クレイマーによると、B面 I Just Don't Know は、MC5として初めて実験的にフィードバックを使用したトラック。

さらに10月15日には、アトランティックからのファースト・シングル Tonight/Looking At You がリリースされる。

A:Tonight/B:Looking At You (Atlantic 45-2678)

この年、ベトナムのアメリカ軍駐留兵士の数は、最高の54万3千人に達していた。全米各地で反戦集会の嵐が吹き荒れる。学生運動も激しさを増し、武装した黒人学生によるコーネル大学占拠事件、ハーバード大学学長室占拠、バークレー、サンフランシスコ州立大学、ウィスコンシン大学を始め、数十に及ぶ大学で流血の衝突が起こる。しかし7月、アポロ11号が月面着陸を果たし、アメリカ国民に束の間の明るいニュースをもたらした。

ニューヨーク北部の町、ウッドストックで40万人の群集を集めてフェスティバルが開かれたのはこの年の8月である。シカゴ民主党大会の場合と対照的に、反戦・反政府のムードは共通していたにもかかわらず、この集会では何の暴力事件も起こらず、参加者はラブ・ピ−ス・ドラッグの平和な3日間を過ごしたのだった。それはまたヒッピー文化のクライマックスでもあった。このフェスティバルを境に、フラワー・ムーブメントは徐々に衰退して行くのである。

10月、SDS(「民主的社会を目指す学生同盟」)の一派であるウェザーマン派メンバー300人が武装階級闘争を引き起こそうとしてシカゴ警察を襲撃するという事件が起きる。全米各地で暴力的犯罪が激増したのもこの頃である。ニクソンはやがて、アメリカが無政府状態に陥りつつあるのではないかと危惧し始め、反戦運動は共産主義者によって先導されたものではないかと疑い始める。

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