KS: ジョン・シンクレアについてはどう評価しますか?

MD: このインタビューを始める前にその点を考えてたよ。好意的に言えば、当時ジョンには信じられないほどのプレッシャーがかかっていた。他のメンバーがこれを話したか知らないが、俺たちは彼に「ファラオ」ってあだ名をつけたんだ。ヘア・スタイルのせいじゃない。愛情込めてちょっと皮肉っぽくそう呼んでたんだ。「ヒッピーのファラオ」ってな。あの頃俺たちは生意気なガキだったよ。何でもわかってるつもりでいたんだ。世界はMC5を中心に回ってた。なのにサンフランシスコでもニューヨークでも、他では誰ともわかりあえなかった。全てはメディアが作り出したうそっぱちで、MC5だけがホンモノだった。新しいものを受け入れるはずの西海岸のヒッピーやあそこの奴ら全部...あいつらとは全く何の接点も見出せなかったね。ジョン・シンクレアだけがホンモノの導師だったからだ。俺たちのリーダーは彼だった。彼だけが、質問をぶつけて真実な答えが得られる唯一の人間だった。彼だけが真実だった。俺たちは心の底からジョンを信奉してたんだ。だから、もう最初っから俺たちは完全に彼にプレッシャーをかけてたんだよ。で、MC5が多くの人に知られるようになった後は他の奴らも答えを与えてくれる人間としてジョンを尊敬するようになっちまって、「ジョン、どうやって団結したらいいんだろう、どうしたらテキサスにいる人々と、サンフランシスコにいる人々と、ボストンにいる人々と、フロリダにいる人々と、カナダにいる...どうやったらみんなの力を結集して我々のステートメントを発表できるだろう?」なんて質問をするようになったんだ。公平に言って、彼はわからなかったのさ(笑)、だけど答えようと努力したんだよ。で、どう努力したかっていうと、みんなを一つの部屋に集めてマリファナを巻いてそれを回して吸わせて、で俺たち答えが得られたわけだ。それでよかった。全く問題はなかった。実際俺はティム・リーリーやアレン・ギンズバーグやジョン・シンクレアと同じ部屋でマリファナを吸っちゃあ、みんな同じ方向に進んでいるんだっていう連帯感を覚えたもんだよ。問題は、みんながそれぞれ部屋を出てって、自分の場所を見つけた時、あの一体感が忘れられちまったんだな。そこへ、より暴力的で反体制的で、ニクソンと奴の政権の挑発に乗って「おい、闘おうぜ」って言い出す奴らが現れた。それがいけなかったんだ。ってのは、俺たちみたいなのが距離を置いたところで独自の価値観で生活してる分には警察も手のほどこしようがないわけだよ、「あれは何だ?どう扱ったらいいんだろう?」ってな。わけがわからないんだよ。ところが社会システムに変化を起こそうって連中が現れて、権力者と同じレベルに近づいてきて彼らを非難したり、爆弾を仕掛けたりするようになったら、我々をどういう風に排除したらいいか、奴らは明確に知ってるってことだ。そして、ジョン・シンクレアは...俺たちが彼をそういう立場に立たせたのか、彼が自分からそうしたのか、とにかくジョンはメディアに対するスポークスマンになったんだ。ほんとに、答えを求める人間たちから受けるプレッシャーに彼が負けちまったってこと、それに対して俺は全然非難するつもりはないよ。私生活でジョンは、例の聖なる化学物質をオトリ捜査官にやっちまうっていうミスを何回か犯したんだ。それで薬物配布か所持か知らんが、そういうことで挙げられて過去に数回裁判を受けていた。で、あの時もムショに入るところだった。彼はそれを知っていたし、俺たちもわかっていた。それはビジネスの上から言って好ましくないことだったのさ。俺たちの生活にランドゥーが入り込んで来て、奴が助言したのがそれだった。ジョン・シンクレアと彼の政治的取り巻き連中を追い出せってな。本当にやるせない出来事だったよ、つまりそれを実行に移してジョンを排除した時(そうする以外道がなかったんだが)、俺たちは家族の絆も失っちまったのさ。つまり「いっしょに暮らしてきた仲間たち」との絆だ。俺たちは単なるビジネス上のグループに成り下がって、そうなると完全に分裂しちまうのにそう時間はかからなかったというわけだ。1968年には、実際に世界を変えるチャンスが十分あったと思う。が、大きな広がりを持った運動によくあるように、あっという間につぶされちまったのさ。今も同じ類のことが何度も何度も繰り返されてるよ。

KS: どうしてそう思うんですか?

MD: 世の中そう急激に変わるもんじゃないってことさ。革命ってのは人々が飢えている時にしか起こらない。アメリカ国民が飢えてるとは思えないぜ。革命は血なまぐさくて、苦痛と殺戮を伴い、最後の最後で栄光がやって来る、ってものだ。完全な絶望からのみ生まれるんだ。アメリカでは何でも手に入れられて、モノにあふれていた。ただちょっと手を伸ばしさえすればよかったんだ。俺たちの絶望感はインテリの絶望だった。つまり、何もワシントンに押しかけて国会を占拠しなくたってよかったんだ。政治の状況は決して悪くはなかった。経済状態だってそうだ。だから実際には「大人たちに反抗する若者」くらいにしかなれなかったのさ。これ、自己否定ってヤツかな?(笑)

KS: 68年の民主党大会の生命の祭典で演奏するためにシカゴに出向いた時、ああいう騒ぎになると予想してましたか?

MD: いいや。するべきだったよな?(笑)俺の頭にあったのは大統領選の年だから行く、って程度だったよ。民主党が大会を開く、であのイッピーの奴らは、既成の社会と自分たちを結びつける唯一の希望が民主党だって、党員に示そうとしてるんだってな。俺にわかってたのは、とにかく行って参加するってことだけだった。演奏するだけだって。で、現地に到着すると、あの政治的な奴らといっしょにマリファナを吸って、リンカーン・パークの野外集会所に行って、トラックで引っ張ってきた電源つきの平らなトレイラーの上にしつらえたステージにプラグインして、演奏し始めたんだ。それがたまたま、警察に口実を与えちまったんだな、頭のおかしい連中を取り締まる理由を。演奏を始めると、偶然時を同じくして、つまり、俺たちがプレイし始めたことがあの暴動の引き金になったのか俺にはわからないんだ、で、ただあそこでたむろしてたりマリファナを吸ってたりしてただけの群衆に警官が襲いかかったんだ。当時はいつだってそうだった。「俺は他のことなんか全然どうでもいいんだって、お巡りに見せてやろう」するとお巡りは全然どうでもよくないんだって見せるわけだ(笑)。群集が先を争って逃げ出し始めて大混乱になった。あらゆるところで人が逃げまどい、あらゆるところで警官が警棒で人をメッタ打ちにしてた。ある曲をやってたんだが、ヘリコプターが頭上を旋回してて、すると突然ステージが動き始めたんだよ(笑)。奴らは機材ごと俺たちをひきずり降ろそうとしてた。「逃げよう、崩れるぞ!」覚えてるのはそれくらいだね。

KS: MC5、特にウェインに関してちょっとうがった見方なんですけど、いつも魅了され尊敬してしまう存在ってのがいますよね。あなたもその1人だった、ロブ・タイナーも、シンクレアも、ランドゥーだってそうです。ウェインって、尊敬できて答えを与えてくれる父親の面影を常に捜し求めてるんです。

MD: 俺もいつもそう感じてたよ。MC5のバンド史はウェイン・クレイマーのヒーロー遍歴の系譜さ。ある導師タイプの人間から次の導師に気持ちが移る、それがバンドのその時々の方向だった。それをきみが感じるってのも不思議な話だな。俺は口に出したことはないが、いつもそう思っていた。っていうのも、あのバンドは昔、非常に長い期間、俺とウェインの人間関係そのもので進んでたんだ。その後彼は他の人間に関心が移り、バンドも違った風になった。それがまさしく実際に起こったことだよ。

KS: 1992年にロブ・タイナー追悼コンサートでMC5が再会ギグを行う前に、最後に他のメンバーと接触したのはいつでしたか?

MD: ウェインとはあれ以前にもずいぶん電話で連絡し合ってたんだよ。奴がナッシュビルに住んでた時はすごく頻繁に話してた。俺はアリゾナに移ってきてからしばらく奴をつかまえようとしてたんだ。ここがすごく気に入ったし、音楽の上でもこの場所でウェインと組んだら面白いことがやれそうだって思ったからだ。奴とまたすばらしいバンドが作れるかもしれないって夢を描いたこともあったね。昔いっしょにMC5をやってたっていう事実があるわけだから。で、ウェインをつかまえようとしたんだ。奴はしばらくニューヨークに住んでて、それからフロリダに移り、そしてナッシュビルにやって来た。連絡するようになったのはちょうどその頃だ。どういう経緯か忘れたが互いの電話番号を知って、頻繁に連絡しあったよ。だがたぶん、2人のどちらかにとって、いっしょに音楽のプロジェクトを始めるタイミングは過ぎたと感じられたのか、地理的に離れてたせいか、実現しなかったんだ。友情は続いてるがね。電話ではほんとに思い出話に花が咲くんだよ。ずっと昔に抱いた反感とか憎しみとか忘れて、愉快に笑い合って、いい友達として互いを見られるようになったんだ。で、ロブ・タイナーのメモリアル・コンサートの時デニスに再会して、今じゃ奴と頻繁に電話で連絡し合ってるよ。他の人間はどうだか知らないが、一時期行動を共にし、あるプロジェクトで同じ体験をし、やがて別れ別れになりその後再会すると、ほんとに同胞意識を感じるんだよ。昔分かち合った同じ経験、互いを知り尽くしてるってこと、そのせいで相手に対し心底愛情を感じるんだ。人生において重要な出来事をいっしょに切り抜けた仲間に対する愛情ってのは、本当に深いものなんだ。ロブやフレッドが死んじまってとても残念だよ、生きてたら同じようなチャンスがあったのに、奴らに電話してさ、「よう、どうしてるんだよ、最近?」なんて言いたかったのに。人は生き続けて、途中で仲間を失う。それぞれ自分の道を歩み出して別れ別れになっちまう。一生連絡し続けられるもんかな、それができるといいんだが。まだ話し合える仲間が残ってて、幸せだと思うよ。

KS: ロブのメモリアルの時、フレッドはどんな状態でしたか?

MD: ものすごく疲れてるみたいだった。それまで見たことないくらい動きが鈍かった。さっき俺が話した奴の動き方をさらに10倍遅くしたくらいに。実際奴を椅子から立たせて、ステージに連れてって弾かせるのに、とてつもなく時間がかかったんだ。ステージ・マネージャーが10回くらい呼びに来て、とうとう最後に「みんな行っちまうぜ、客が帰っちまう。ステージに上がるかさもなきゃギターをしまって帰ってくれ。なかったことにしよう。」って言ったんだ。で俺はついに、ほんとに最後に、立ち上がって宣言した。「オーケイ、おまえらがやらないんならいいさ、俺は出てって1人でソロをやるからな!」って。で、ステージに向かって歩き始めると他の奴らがついてきた。あれがなけりゃフレッドはほんとに椅子から動かなかったと思う。奴の意識はどうしようもなく、完全にどっか他のところに行っちまってた。で、最終的に俺たちはステージに上がってプレイし始めたんだが、フレッドの様子がどっか変だとわかった。何が、とははっきりわからなかったし、フレッドもどこかおかしいとか、気分が悪いとか、そういうことは全然言おうとしないんだ。だが、ウェインとデニスと3人で言い合ったのは覚えてるよ。「今度俺たちが顔を合わせるのはフレッドの葬式だぜ」って。そしてまさしくその通りになっちまったわけだ。

KS: つまり彼はあの時すでに重い病気にかかってたんでしょうか?

MD: あの時誰もそうは言ってなかった。しかし全くそういう風に見えたよ。だが、実際にはあれから2,3年生きていたわけだろ、だから実際のところはわからない。フレッドの眼の中に、ほんのわずかエネルギーが残ってるのが見えたのは、始まる前に4人でバーで待ち合わせをしてて、俺が最後に現われた時だよ。俺が奴のまん前に立って顔を覗き込むと、突然眼を上げて2秒くらい俺を見たかと思うと、ぱっと顔を輝かせて「マイケル!」って言ったんだ。で抱き合うみたいにして、その後はもうどっかに飛んじまった、つまり精神的に、ってことだが、よくはわからない。(俺、こんなことしゃべっていいのか?)フレッドの顔が輝き、抱き合って、奴は俺に会えてほんとに幸せで、俺も奴に会えてほんとに幸せで、そして次の瞬間、フレッドは再び身を引いてしまい、鎧で包まれちまったんだ。閉じてしまったんだ。ほんとに、あの時フレッドの何がどうおかしかったのか、どう表現していいかわからない。とにかく、全然普通には見えなかったし、普通の行動じゃなかった。

MC5に匹敵するバンドは見たことがない。MC5に近づいたバンドさえなかった。これからも現れないと思う。どうしてそうなんだろう?

KS: ひとつには、MC5が結成された場所という要因があると思います。デトロイトよりアメリカ的場所が他にありますか?それから社会的、政治的変化が交錯した時代にバンドが存在したということ。そして、僕が愛しあなたがプレイしていたアメリカン・ガレージ・ロックがブレイクした時代だったという要因があります。

MD: 時代が生んだバンドでもあったわけだな。イギリスで多くのバンドが生まれ、違ったスタイルがたくさん出てきて、R&B、ブルース、ロックンロール、ポップ・アート、モッズ、それらが全部同時期にブレイクし、混在していた。そういうものを背景にして、それプラス、アメリカじゃLSD、マリファナといったものが使われるようになった。当時あのシーンの中にいるということは、新しいアイデアの開発研究所にいるみたいなもんだった。実験の時代だったんだ。することなすこと全てが画期的な試みだった。ロックンロールだってまだ生まれたばかりだったんだから。「ハイ・タイム」のジャケットに漫画が載ってるだろ。

KS: あの卵の...

MD: あれを描いたのはロブさ。彼が残した漫画のうちのひとつだ。MC5は子供みたいだった...ロブの子供だ。じゃなきゃ、奴のプラモデル・カーだな、地下室で作って遊ぶような、おもちゃみたいな。奴はよく椅子に腰掛けて他のメンバーの漫画を描いてたよ。「ハイ・タイム」に載ってたやつはMC5ってバンドの本質をよく表現していたと思うよ。どこかからない、見知らぬ荒野からあいつらが現れて、あの魔法の卵にたどり着く。うち一人がガッツを出して殻を破り、中に何があるのか覗き込む。あの漫画のストーリーはMC5がどういうバンドだったのか、真実を突いてると思うよ。

KS: ここで、簡単にデストロイ・オール・モンスターズとあなたの関わりに触れておきたいんですが。

MD: ありゃ、クレイジーなバンドだったよ。音楽の歴史から言ってもクレイジーな時代だったし。パンクがブレイクし、ニューウェーブやいろんなものが出てきた。俺にとっても妙な時代だったね、ムショから出てきたところで何をしたらいいか全然わからなかった、そこにロン[・アッシュトン]が連絡してきて奴のバンドで一緒にやらないかって誘われたんだ。メンバーはほんとに全員才能にあふれていたよ、だがとにかくいつも酔っ払ってた。マネージャーにはいつもどやされてたよ、「おまえらのリハーサルは単なるカクテル・パーティーのどんちゃん騒ぎだ」ってな。チューニングをする時点でみんなすでにビールを6本とラムを半リットルも飲んじゃってるんだぜ。バカみたいな話だが、当時俺たちはそんな風だったんだ。ものすごい才能を持ったメンバーもいた。ミラー兄弟だ。あいつらはほんとにすごかった、ボストン音楽学校の出身の優れたプレイヤーで、すばらしい音楽的アイデアにあふれていた。あのバンドはいくつかすばらしい曲を作ったが、継続的に何かして形にするというような現実性に欠けてたんだ。

カネは全く入ってこなかったし、アルバムを作る資金も全然なかった。アルバムは1枚も作れなかったね。シングルを何枚かチェリー・レッドっていうイギリスのレーベルから出しただけだ。アルバムが数枚出回ってるけど、以前のメンバーが昔録音したテープから編集しただけのものだ。あのバンドには長くいたよ。ほとんど7年だな。だが彼らはローカルな狭いシーンでビッグになることの方に熱心だった。ニューヨークやイギリスなんかにも行ったけど十分な支持は得られなかったし、現実的に何か始めるほどのリーダーシップを取る奴もいなかった。才能には恵まれてたが、ただ飲んだくれてたのさ。

KS: 70年代半ばになる頃にはデトロイトのロック・シーンも全く変わってしまっていましたね。

MD: ファイブやストゥージズの時代とは全然違うものになってたね。だがその名残は残ってたよ。ある意味、パンクってのはその延長線上にあったわけさ。作曲の仕方、演奏スタイル、服装や髪型とか、全く新しいアプローチが出てきて...すばらしかった。ストゥージズとMC5がパンクのルーツだって言う奴がいるようだが、悪い気はしないな。いい気分だね!

デストロイ・オール・モンスターズってのはメンバーの個性があり過ぎて、それぞれやり方が違ってたし、そのごちゃごちゃをまとめるほどのリーダーシップを持った奴がいなかったんだ。ものすごくアヴァンギャルドでパワフルな、ハードでエネルギッシュな音楽をやってたよ。楽しかった、すごく。人気も少しはあったし。ローカルでバカ騒ぎしてるだけのバンドだったが、それでも1年に1度くらいはガッツを出して他の場所に行った。トロントとか、トロントには2,3回行ったよ。それからニューヨーク、CBGBでやったよ。あとマックス・カンサス・シティーとか。そういう俺たちでも受け入れられるような場所に出かけて行ったわけさ。ワシントンDC、フィラデルフィア、ピッツバーグ、クリーブランド...あそこじゃペル・ウブとよくやったよ。あいつ、なんて名前だったかな、デビッド・トーマスか?奴は自分がいつもギグをしてたクラブに俺たちをブックしてな、パイレーツ・コーブとかなんとかいう場所だ。すげえスタイリッシュなクラブでね。ペル・ウブがクリーブランドでやる時は俺たちが前座をやったんだよ。まったくすばらしいエキサイティングな時代だった、あの頃は。70年代終わり頃だ。みんなとてつもなく過激なことをしてた。過激に反社会的な、しかしものすごいクールなことをな。

で、イギリスに行ったら、時代遅れのヘビーなメタルサウンドなんかやってるって、さんざん叩かれたよ。デフ・レパードとかあのテのメタル・リバイバル・バンドが出てくる前だったしな。その直前だったから俺たち、メタルな奴らってことでめちゃくちゃ悪口を言われた。1980年くらいだよ、マッドネスとかセレクターとかああいうスカ・バンドがトレンドだった頃だろ、そこへロンが例のギターを聴かせたわけだから、奴らもうオェッってきたんだな。「やめてくれ!」って言われたんだよ。だからコマーシャル的にはあのツアーは失敗だった。ファンも全然つかなかったし。だが俺はイギリス自体はすごく気に入ったんだ。楽しくて仕方なかった。ほんとにあの国の全てが好きになったんだよ。歴史とか建造物とか、人、食い物、ビール...イギリス紀行だ。1ヶ月くらいいた。ヨークにしばらく滞在して、とても楽しかった。リバプール、リーズとかああいうカッコいい町でギグをやった。デストロイ・オール・モンスターズに関しては、あのバンドの結末を思うとなんだか暗い気持ちになるね。でも考えてみるとすごく楽しかったことは確かなんだ。70年代終わりというのはクリエイティブなアイデアにあふれていた。俺たちはそこでプレイしてたんだ。ほんと、あのシーンの一部でいられたってことはすごくラッキーだったと思うよ。

KS: その数年後にロサンジェルスでビリー・フランクのエンプティー・セットに合流しましたね。

MD: ビリーとエンプティー・セットとは、まずヨーロッパに行って俺の「特別出演ショー」みたいなのをいっしょにやったよ。ルミナリオスが第1回目のヨーロッパ・ツアーに出る直前のことだ。俺はビリーたちと行って、まず最初の30分くらい俺がMC5やデストロイ・オール・モンンスターズやソロ・ナンバーなんかをやる。で、次の45分くらいを奴らが自分たちのマテリアルをやるんだ。イタリア、オランダ、ドイツなんかを回ったよ。楽しかった。

***ここでインタビューはいったん打ち切られ、第2回目はマイクがルミナリオスとのツアーでヨーロッパに出発する前夜に行われた。話はまずルミナリオスのライブ盤、"3000 Germans Can't Be Wrong" の話題から始まった。

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