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1998年5月に2日間にわたって行われた、ベーシスト、マイク・デイビスとのインタビューである。マイクはインタビュー当時はアリゾナ州ツーソンに住んでいたが、2004年現在はウェインの住むロサンジェルスに移って来ている。

彼はメンバーの中でも最年長であり、MC5当時の出来事に関しても的確・客観的に事実を把握しているという印象を受けた。「バック・イン・ザ・USA」レコーディングのエピソードなど、ある意味で衝撃的な内容と言えるかもしれない。

KS: どういういきさつでMC5に加わったんです?

MD: あいつらと会うまでベースを弾いたこともなかったよ。俺はアコースティックとハーモニカを持ってボブ・ディランを歌ってたんだ。1962年か63年頃初めてディランを聴いて、俺の人生が一変した。あんな風に歌ったり語ったり、自分をああいう言葉で表現する奴なんて初めてだった。それまでアート・スクールに通ってたんだ。ウェイン州立大学で、絵描きかアーティスト、ごくありふれたものになるために勉強してたのさ。で、マソニック・テンプルにボブ・ディランを聴きに行ったんだよ。当時の彼はギター1本でスツールに腰掛けて1人でやってた。そして俺の人生を変えたんだ。自分が何をやりたいのかわかったのさ、俺はミュージシャンになるぞって。 MC5の連中や、特にウェインだが、あいつらに初めて会った時に俺がやっ てたのはそれだった。ウェインと友達になっていっしょに出かけたりす るようになってからは、ギターを持ち寄っては2人でビートルズを歌っ てたよ。歌詞を全部暗記してな。奴はまだ高校生だったが、俺は2,3 歳年上でニューヨークに住んでたこともあったし、それで奴は俺のこと を尊敬してるみたいな感じだった。ニューヨークのこととか、いろいろ 話してやったよ。いっしょにギターを弾いてハモったり、そういうことをしてたんだ。 そう、ロブのことも、学生やアーティストが大勢住んでた場所があって、俺たちもそこに住んでた頃からの知り合いだった。ウェインとロブは、俺をバンドに加えられたらきっとうまくいくって思ったんだな。ど っちみちウェインは当時のベーシストとすごく仲が悪くて、とうとうそ いつはやめちまったから、俺が入るのは簡単だったよ。そいつがいなく なって2人は俺に「オーケイ、マイク、入んなよ」って感じで言ったん だ。で俺はフェンダーの白いプレシジョンを買って、ウェインといっし ょに奴の実家の地下室にこもって当時あいつらがやってたカバー20曲 くらいを練習した。MC5てのは、カバー・バンドだったんだぜ、1曲だけ 例外として。それが "Black To Comm" だ。あの曲は全くの実験的な、ク レイジーな無調ナンバーだった。俺がバンドに入ったのはそういう経緯 だ。皮肉なもんで、俺のデビュー・ギグはウェイン州立大学さ。絵描き になるために勉強した場所だった。

KS: 僕は11歳くらいの時、「キック・アウト・ザ・ジャムズ」ジャケッ トの裏面を見て、あなたがサイケデリックなアンクル・サム風の服を 着てベースを弾いてる姿が描いてあったのをすごく印象的に覚えてるん で すよ。ところでひとつ訊きたいことがあるんです。僕との会話でデニス が触れてたことなんですけど、「振付け」の話です。当時ステージで、 振り付けを交えて演奏してたとか?

MD: レニ・シンクレアが撮った「キック・アウト・ザ・ジャムズ」の8 ミリフィルムを見たかな?俺たちがダンスのステップを踏んでるのが映 ってるぜ。「テイーンエッジ・ラスト」でダンス・ステップの振り付け をしたのさ。どうしてそんなことを始めたかっていうと、当時のロック ンロール・バンドがバーでやってたリズム・エンド・ロックみたいなこ とがすごく好きだったのさ。初期のロックンロールだな。俺たち全員、 俺 だけ少し年上で、それからあとの奴らみんな、ああいうR&Bぽいことがも のすごく好きだったんだよ。フェンダーを持ってスパンコールのスーツ を着たバンドが歌って踊って、みんな汗だくになって、ロックンロー ル!って。で、そういうバンドが初期の頃よくやってたのがダンス・ス テップだったんだ。ベーシスト、ギタリスト、サックス・プレイヤーが 振付けに従って同じ動きで踊る、しかも回ったり前後左右に動いたり、 すごい複雑な振り付けなんだ、その見事なことといったらなかった。完 全に魅了されたよ。そういうバンドは揃いのラメのスーツを着て、みん なカッコいいフェンダーの楽器を持ってて、カッコいいビートで、前に 後ろに横にステップして、もうほんとにそのすばらしいことと言ったら なかった。震えるほどの感動だったね。それで自分たちもああいう風に やってみたいって思ったのさ。で、「テイーンエッジ・ラスト」でだけ それをやってみたんだよ。

KS: MC5に関して、あなたの最良の思い出といったら?

MD: たくさんあるよ。最初に思い浮かぶのは、ボブ・ロウ・ボートでや った時のことだな。ボブ・ロウってのは、デトロイト川に浮かぶ島にあ った遊園地でね、ボブ・ロウ・ボートって、厳密に言えば外輪船じゃな いんだが似たような船で、デトロイト川をそれに乗ってボブ・ロウ遊園 地に行くんだよ。で、ある時そこでショウがあったんだが、これがとてつもなく寒い日でね。しかも、ステージの場所ってのがまた、コロセウム構造になってる鋼鉄とコンクリートでできたデカい建物の底なんだ。もう寒くて寒くて、指がかじかんで動かないのに必死で演奏したんだ。吐く息は真っ白で、客もほんのわずか、何のイベントだったかもう忘れたけど、ティーン・ファン・フェアーとかなんとかいったかな、ウェインが取ってきたどうでもいいような仕事だった。で、とにかくクソ寒い中そこでかろうじてショウをやって、午後も遅くなってからボブ・ロウ・ボートに乗ってまた川を下って帰り始めたわけだ。その時バンドの誰かが、多分ロブだったと思うが、突然機材を持ち出してきて2階デッキにしつらえた。で、俺たちガーンと一発始めたんだ!船の上はどういうわけかそれほど寒くなくて、俺たちは楽器を出してプラグ・インして、「グロリア」とかストーンズやキンクスとか、その頃よくカバーしてたナンバーをやり出したんだ。そしたらそのデッキに人が大勢集まって来て、すごい騒ぎになった。ボートの上、空の下、デトロイト川を下りながらみんな狂ったようにロックして踊ったよ。よく覚えてるよ、あの時のことは。つまり、目の前に客がいて、そいつらが完璧に音楽に没頭して狂ったように踊りまくって、現実のことなんか全く無関心になってたら、そのバンドは本当の意味で成功したってことなんだ。そしてMC5にとっては、それが初めて起こったのがあの時だったんだよ。忘れられない瞬間だ。俺が一番好きな思い出ってのは、だからあの時のことだな。

KS: 初期の話と言えば、カウント・ファイブ、シャドウズ・オブ・ナイ ト、シーズといったガレージ・バンドのお手本になった、フー、キンクス、ゼム、ヤードバーズをMC5もカバーしてたわけですけど、フューチ ャー・ナウの監督、デイブ・トーマスに聞いた話なんですが、MC5のもと マネージャーのジョン・シンクレアが語ったところによると、「MC5をガ レージ・バンドと呼んではいけないし、メンバーの誰にもその言葉を使 ってはいけない、さもないと怒り出す」っていうんですが?

MD: MC5のバンド史の中で俺が一番気に入ってる部分だよ。トランス・ ラブ・エナジーやジョン・シンクレアと係わり合いになる以前、まだガ レージ・バンドだった頃がな。俺が今現在プレイしたいと思ってるのは そういう音楽なんだ。初めてファイブに加わった頃、ああいうカバー・ ソングをやってた頃が一番楽しかったよ。後になってインプロビゼーシ ョンやら何やらを演奏するようになったのは、あそこを出発地点として 学んだんだ。「キャント・イクスプレイン」で始めるが、真中あたりで ハズれて全く異次元のインストを演奏した。他の曲でもたくさんそれを やったよ、ものすごく楽しかった。ワイルドで荒削りでエキサイティン グな音だ。後になってジャズ・ミュージシャンになろうとするようにな っちまって、俺はほんとにいやだったんだ。ああいう音楽は全然好きに なれなかったね。

俺たちがガレージ・バンドと思われたがってないなんて、ジョンがどう してそんなことを言ったのか理解できないな。だって彼が俺たちを知る 以前の時代だぜ。今思い返してみて、ファイブにとって決定的なターニング・ポイントになったのは、ジョン・シンクレアとの出会いだね。そ れまで俺たちは何にも考えちゃいなかった。ただ楽しいからやってたん だ。あの時代の粗野なガレージっぽい実験的サウンドが俺はほんとに好 きだったんだよ。それがジャズを聴くようになったとたんに、ジャズ・ ミュージシャンになっちまってインプロビゼーションをやり始めた。そ れを始めた時点で輝きが失われ、不自然で過酷な、大音響で人を覚醒さ せるような、そういう音楽になったんだ。だから俺が気に入ってるの は、揃いのユニフォームなんか着たダサい頃のファイブなんだよ、何を やってるのかわけもわからず、行き当たりばったりな頃、俺たちは周囲を ものすごく驚かせるようなことをしていた。俺たちがすることなすこと全くの 驚きだった。後になって35分もかかる曲をやるのがあたりまえになっ てからはあんまり楽しくなくなっちまったのさ。 昔、よく1階の練習場で明かりを落としてプレイしてたこと話したか? 真っ暗な中見えるのはアンプの赤い光だけ、その暗闇で演奏するんだ。 自分の楽器も見えなけりゃ、他の奴らが何をしてるかも見えない、音楽 を演奏する一つの新しいアプローチだよ。見えないからできるのは聞く ことだけ。とてもいい練習方法だと思ったね。暗闇の中ですごいサイケ デリックな、前衛的なものを演奏した。すごく宇宙的なサウンド、そう いうものを練習する方法だったんだ。精神が宇宙空間に浮かんでるみた いで、指は電気的に音を増幅する楽器に触れている、MC5の無調サウンド はあそこから生まれたんだ。とにかく弾いて弾いて弾き続けて、そのう ち誰かのパートをつかむとそれをいっしょに弾く、そのうち全員が同じ ひとつのパートにのっかって、その瞬間、その旋律が一種、「いのち」 を帯びるんだ。まったくの魔法だった。

KS: では、MC5最悪の思い出といったら何でしょう?

MD: わからんな、多分71年か72年の始めに、イギリス・ツアーの途 中でバンドを放り出されたことだろうな。まるで高速道路で突然車から 降ろされたみたいに、自力でうちへ帰って一人でやり直さなければなら なかった。1970年の終わりくらいから、俺はクスリにのめりこんで た。バンドの一員であるということに全く喜びを感じなくなって、メン バーも互いに意思を通わせることをしなくなった。みんなで集まっても ビジネス・ミーティングみたいで、ギグなんかまるでジョークだった ね。誰とでも寝たから離婚され、お決まりの麻薬中毒のパターンにはま り込んだ。あのイギリス・ツアーに合流するために、俺は自分でカネを 払ってチケットを買ったんだぜ、それがどういう結果になったかってい うと、出発しようとして空港に行ったらサツに逮捕されたのさ(笑)。 今だから笑って言えるけど、当時は違った。出国検査で逮捕されて、持 ち物全部没収され、言われたのさ、「オーケイ、出て行きな」っ て。

で、翌日別の便で出発したんだが、その時点ですでにロンドン・スクー ル・オブ・エコノミックスってとこで予定されてたすごく大事なギグに 間に合わなかった。で、イギリスに着くとデニスが空港に迎えに来て、 「おい、マイク、やばいぜ、みんな怒ってるぜ」って言うから、俺は 「どこでもいい、クスリを買えるとこへ連れてってくれ」って答えた。 で、そこへ行って、その後いくつかギグをやって1週間くらいすると、 誰かの部屋に呼び出されてそこでミーティングをして、お前はクビだと 言われたんだ。そういうことだ。でもツアー中にイギリスで別のベーシ ストを見つけて、そいつが残りのギグで弾いたんだよ。で、アメリカに 帰るとローリング・ストーンに、MC5がウェンブリー・スタジアムでブー イングくらってステージから引き降ろされたって記事が載ってた。客に ビール缶をめちゃくちゃ投げつけられて、ステージを降りなければなら なかったんだ。気の毒に。だからあのツアーの残りの部分に関しては何 も知らない。

KS: ある時期、ファイブはかなりの時間をヨーロッパで過ごすようにな ったんですよね。

MD: 必ずしもそうとは言えないな。そう見えるかもしれんが。現在みた いな形のツアーじゃなかったんだよ。今俺がルミナリオスでやってるみ たいなツアーをMC5が行なったことはなかった。つまり、ルミナリオスと な ら、一ヶ月間のツアーで毎晩ギグをやる。ところが当時のMC5は、ヨーロ ッパ、実際にはイギリスだが、行って3週間も滞在して、ギグは5〜 6回やるくらいなんだ。ライブとライブの間にはすごい自由時間があっ た。理由はわからんが、多分あまり会場がなかったせいかもしれない。 とにかく、俺が今やってるみたいに町から町へ次から次へと旅するって ことは全くなかった。しかも2,3回行っただけだぜ。

KS: デニスの話によると、ファイブ解散後、あなたたちメンバー3人で アセンションとして再結成しようとしてたとか。その時の話を聞かせて もらえますか。

MD: アセンションはフレッドのアイデアだった。フレッドのバンドにな るはずだったんだ。彼が曲を書き俺が歌う、と。当時俺に関して迷信が あってさ、俺が歌えるってやつだ(笑)。俺が昔ボブ・ディランとか フォークソングなんかやってたからだろうな。で、みんな俺が歌えるっ て信じてたわけだ。もちろんそれから数年もたった頃、それは絶対真実 じゃないって、自分でわかったけど(笑)。だがとにかく、時として信 じてればやっていけるってことがあるだろ。で、フレッドは俺が歌える だろうと思って、2人で出かけてってカシオのキーボードを買ったの さ。それで、ただ突っ立って跳ね回るだけじゃなく、やることが見つか ったわけだ。ジョン・ヘフティってベースを雇って、デニスがドラムを やってもいいって言うから、これはちょっとしたスーパー・グループに なるぜ、って思ったね。 アセンションのもので残ってるテープはあるよ。フレッドの作品だ。フ レ ッドのバンドなんだから。ライブはあまりやらなかったように記憶して るが、2,3回かな、しかもギグって言ったって、ローリング・ストー ンに載るようなシロモノじゃない。ボーリング場で、一晩3,4セット やるって程度のもんさ。「なんだ?なんでこんなとこでやるんだよ?」 って感じだった。しかしすぐに気がついたね、よっぽど慣れてない限 り、1時間半も喉を使ってると必ずトラブルが生じる。だからわりとす ぐにポシャったよ、あのバンドは。でもすごく楽しかった。デニスの家 の屋根裏部屋で、デトロイトの猛暑の中、バケツに絞るほど汗だくにな って練習するのはな。まったく不思議な時代だった。とてつもなく奇妙な日々 だったよ。

KS: ウェインとロブも誘ったけど、断ってきたっていうのは本 当ですか?

MD: 違うね。MC5とは別なものがやりたかったんだ。フレッド・スミ ス・ショウがな。

KS: 先日スコット・モーガンと話したんですけど、彼がラショナルズを 離脱した頃、あなたは初期のスコット・モーガン・バンドに参加してた ことがあったとか?

MD: ソニックス・ランデブー・バンドの初期だよ。第1回目のギグに向 か う 途中の車の中でフレッドが思いついたバンド名だ。「バンドの名前はこ れだ。ソニックス・ランデブー・バンドと名づけよう。」で、みんな異 口同音に「オーケイ、フレッド。」(笑)とにかくフレッドが何か言う と、残りの者は「オーケイ、フレッド」なんだよ。いつだってそうなの さ。スコットは最初はいなかった。少し後になってジェイムス・アレン ってキーボードを入れた。そいつがジミー・ホッファの甥かなんかで、 それがフレッドの気に入ったんだな。生粋のデトロイトのバンドにする ってのが。フレッドはほんとにその点でアレンが気に入ってたよ。実際 そいつはすごくいい奴で、しかも優れたキーボードだった、何かおかし な奴だったな。今どうしてるんだか。 俺たちは、その数年前にジョン・シンクレアとフレッドが、公共の安寧 と秩序を乱したとか何とかで逮捕されたクラブで演奏してたんだぜ。モ ーガンはシンガーとして俺たちみんなに敬われてた。彼がラショナルズ で残した音楽は本当に「尊敬」に値するものだったしな、ハ、ハ、ハ。 いいバンドだったよ、ラショナルズは。俺たちみたいにぐちゃぐちゃに なることもなかった(笑)。確かにスコット・モーガン・グループって いうのがあって、フレッドと俺は1曲レコーディングに参加して、その 後スコットとフレッドがソニックス・ランデブーとして組むことになっ て、俺はブタ箱に入った。

KS: フレッドのことを少し話してくれますか。どんな印象を持ちまし た?

MD: ものすごくいろいろあるよ。フレッドは俺が遭遇した中で最も複雑 かつ印象的な人間だった。物腰はこれ以上ないというくらい静かなん だ、ところが彼独特の雰囲気が全ての場面を制圧してしまう。ほとんど 言葉を発しなくとも、ただそこにいるというだけで。彼にはそういう、 と てつもない断固とした力があった。揺ぎない信念が。この世のどこに も、恐れるものを何一つ持たない者の眼をしてた。鉄壁の自我だ。ほと んどしゃべらないから彼のそばにいると落ち着かないこともあった。と ころがひとたび何か言葉を発すると、それはこの世界で最も否定し難い 圧倒的真実として響いた。かといって「リーダー」には決してなりたが らなかった。彼のやり方じゃないんだ。何かを仕切るということに興味 を持っていなかった。ただ圧倒的なその存在感だけがあったんだ。部屋 に何人か集まっていっしょにビールを飲んだり、音楽ビジネスで儲けて るレコード会社の役員なんかと会議室でミーティングをしたり、そうい う場面では気持ちのいい奴なんだよ。つまり何事に関しても全く問題は ないんだ。非常によく制御された人間、陳腐な言い方だけど、コントロ ールされた変わり者なんだ。ただしゃべらないんだよ、話し続けるとい うことがないんだ。

最初MC5に入った時、俺とフレッドはデトロイトのダウンタウンのアパー トにいっしょに住んでた。2人で一晩中ビールを飲みながら、いろいろ想像をめぐらしたり、夢やビッグ・バンドになったらどうするとか、語 り明かしたよ。俺たちの最大の望みは冷蔵庫を2台買うことだった。1 つにはストローズ・ビールをたくさん詰めて、もう1つはコカ・コーラ でいっぱいにする、それが2人のゴールだった。ビッグになった時の夢 はそれだったんだ(笑)。

一晩中起きてて、2人でアコスティックを弾いた。フレッドは小さなア ン プを持ってて、それにプラグ・インして。当時彼はグレッチ・テネシア ンを弾いてた。俺たちはデトロイトのダウンタウンにあった古い家の最 上階に住んでたんだ、屋根裏部屋さ。切り妻の三角になってるところが フ レッドの場所で、もう一つ窓が三角になってる所が俺の場所だった。彼 がいかに独創的なミュージシャンか、わかり始めたのはその頃だ ったと思う。奴が思いつく音楽ときたら...それをフレッドは何回でも弾 いて聞かせるんだけど、こっちも絶対飽きない。「もう1回聴かせてく れよ」って感じになるんだ。するとその時弾いてたパートをまた繰り返 して弾く。まるで催眠術にかけられたみたいになる。オリジナル・スタ イルと言っていい曲。誰の音楽にも全然似ていない、それが次々に彼の 指 先から飛び出すのさ。 MC5の中ではいつも部屋のあっちの方に一人で座って、事の成り行きを見 守ってるって感じだった。だがひとたび引っかかることがあると、向こ うから声をあげてそれを指摘するみたいなことを言う。そうするともう 誰も彼の意見に反対したり議論したりすることができないんだよ。フレ ッドが気に入らなければ何事も前に進まないんだ。

KS: ウェインとフレッドの力関係はどうだったんですか?

MD: いい意味での競争だよ。いい結果を産み出すような対抗意識だ。対 抗ですらなかったのかもな。ウェインには彼なりの演奏スタイルがあ り、ギターの弾き方を真似たり学んだりしたギタリスト達のようにプレ イした。フレッドの方は全然違うサウンドなんだ。2人ともそれぞれ独 自の音とスタイルを持ってた、が、2人でいっしょに演奏するときには 代わるがわるソロを弾くんだよ。知ってると思うがウェインてのはギタ ー・ソロのメロディーラインを作るのがすごくうまいんだ。で、ウェイ ンが奴のソロを弾くとフレッドがそれにリズムをつける、そのうち入れ 替わるんだよ、フレッドが彼のコンセプトを弾いてそれにウェインがリ ズムをつけるんだ。そういう感じで「もっといいのができるぜ」式に進 んでいく。決して「どっちがうまいかやってみようぜ」じゃなく「どん ないいのができるかやってみようぜ」って感じなんだ。MC5に入っていっ しょにプレイするようになった時感じたのを覚えてるよ、こんなすげえ ギター・プレイヤーはどこを捜してもいないぜ、って。キース・リ チャーズとジェフ・ベックみたいだって思った覚えがあるよ。ウェイン とフレッドには心底満足してたね。

KS: ロブ・タイナーについてはどうですか?

MD: ロブ・タイナーは、俺が会った中で最も寛大で思慮深く、尊敬に値 する、温かく思いやりのある人間だった。それに彼はたぶん俺たちの中 で一番保守的だったと思う。つまり、最も地に足のついた人間だったん だ。結婚して子供を持ったのもロブが最初だった。 ロブは心の底から他人の事を心配するんだよ。他人のために血を流すん だ。出会った人間全てをロブは思いやった。握手したその瞬間から、相 手の生活を心配し出すんだ。誰に対しても興味を持ち、その状況を思い やって、何とかよくしてやろうとしてた。オーディエンスが自分自身に 関して何かを見い出す方法をステージの上から教えてやる、っていうの がロブが好んだ考え方だった。ひとつのビジョンを描いていて、俺の見 るところそれは全ての人々が平和に協調し合って暮らすってことだっ た。そしてそれを歌にしたんだよ。彼の歌詞はそうやって書かれたん だ。ダサい言い方だが、「ラブ・アンド・ピース」さ(笑)。

で、誠心誠意それを実行しようとしてた。だが決して女々しい、フラワ ー・パワーのやり方じゃない。ロブは人間の中にある力を信じてた。自ら癒し、建設し、この世界を全ての人間にとって幸福な場所に作り変え る力だ。ギグをやる時は彼は常に全身全霊を傾けて、その場に来てる客 全員にそういう愛を分け与えていたんだよ。俺にとってロブはMC5の魂だ った。あいつらに初めて会った時、ロブはボルトの座金を身につけて た。鎖で首からぶら下げてな。それを「MCファイブネス」と言ってた よ。1965年くらいのことで、つまりそれくらい熱狂的にバンドに取 り組んでたのさ。MC5ってバンド名をつけたのもロブだ。ある時みんなで 高速道路を走ってて、そしたらロブがMC5を宣言したんだよ。デトロイト そのものだ。

KS: カー・パーツのコード名みたいな。

MD: ああ、ロブ・タイナーともっと親密になりたかったよ。でも奴は MC5とは別の世界を持ってた。つまりMC5の全盛期に結婚して息子も生ま れたし、いわばあの混沌とドラッグとどんちゃん騒ぎのど真ん中で、家 庭ってものを維持しなけりゃならなかったんだ。きちんとした家庭生活 を維持し、しかもMC5でボーカリストを務めるのはさぞかし難しかったろうと思うよ。

KS: ある意味で彼はバンドと隔絶した存在だったみたいですね。ケン・ ケリーとのインタビューでウェインは、ロブが他のメンバーにいかにいじめられたかを語ってましたけど。

MD: 彼はいわゆる「ポップ・スター」じゃなかったからだ。ロブにはずいぶんひどいことをしたよ、俺たちは。特にアトランティックと契約して絶対成功するんだって決意を固めてた頃だ。それまでロブに関して全面的に許容されてたことを変えなきゃならなくなったんだ。体重とか服装の趣味とか、そういう実にくだらないこと、短絡的な考え方のために、ロブは俺たちからものすごい迫害を受けたんだよ。本当に不当な扱いをされ、まるで十字架にかけられたみたいだった。今でも覚えてるけど、みんなで郊外に引っ越した時、俺たちは奴に毎日家の周りを50週ランニングしろって強要したんだ。若い女の子にアピールするようなロック・スターの外見に近づくよう体重を減らせってわけさ。まったく、何だってかつてのシリアスで過激な政治的スタンスから、あんな陳腐なポップ・スター志向になっちまったんだろうな?(笑)だが当時は大まじめだったんだよ。気の毒に。俺たち全員有罪さ。でも俺たち自信も苦行を強いられてたんだよ。3ヶ月間肉だけ食うってダイエットをさせられたんだぜ。フレッドを除く全員。あいつはもともと痩せてたから。誰かがMC5は太ってるって考えたんだな。それでみんなTボーン・ステーキとカッテージ・チーズしか食えないってダイエットをしたんだ(笑)。ポップ・ミュージック・マーケティングの、どっかのビッグなディレクターのモルモットみたいに、肉とカッテージ・チーズだけ食うアホみたいなダイエットでやせ衰えてさ。誰かがウェイン・クレイマーにそれが体重を落とす最短の方法だって言ったんだよ。それでウェインは無慈悲にも、バンド・メンバー全員にそれに従うよう指示したんだ。命令されたんだ。それでみんなその後半年も、Tボーン・ステーキとカッテージ・チーズだけで生きてくハメになったのさ。だが、いいか、生野菜、パンとか穀物抜きで暮らしてみろよ、2週間もすると全然身体に力が入らなくなっちまうんだぜ、無重力状態に浮いてるみたいな。廃人同様になるんだよ。体重は減ったさ、最初の2週間でそれこそ20ポンドもな、で自分が誰なのかもわからなくなっちまうんだ。

KS: アトランティックの誰かが、マネージメントの誰かが、実際そういうことをあなたたちに直接指示したんですか?

MD: うーん、間接的にだな。つまり「現実社会」と俺たちをつなげるゴージャスな絆、ジョン・ランドゥーがいたんだ。彼がウェインに教えをたれる、するとウェインがそれをバンドに布告して次に何をしなけりゃいけないか命令するのさ、そしたらもう抵抗できない。

KS: ランドゥーと最も近い関係にいたのはウェインだったと?

MD: 断然。ウェインはいつだってMC5は彼の赤ん坊だって考えてたんだ。リーダーは自分だってな。もともと最初にメンバー全員でそういう風に決めたんだよ、家に電話があるのは奴だけだったからさ(笑)。親と住んでるのは彼だけだった、で奴は電話が使えたんだ。それにリーダーの責任を楽しんでたよ。他のメンバーは責任を伴うようなことにはタッチしたくなかった、ただクリエイティブなことだけしてたかった。だがウェインは何かこう、地に足がついてるというか、一般の人たちと話ができたんだよ。ある時点で俺たちは組合に加入しなければならなくなった。音楽家組合ってやつに入らなくちゃいけないんだ。用紙に記入して、リーダーを決めなきゃならなかった。で、組合事務所の担当者がウェインをMC5の代表者として登録するよう決めたんだよ。ウェインはその役割をすごく真剣に受け止めたのさ。それで全然かまわなかったし。

KS: じゃ、初期の頃はウェインがブッキングとか担当してたんですか?

MD: ウェインがブッキングとその他全てのビジネス雑務を担当してた。

KS: "Addicted To Noise" 誌のインタビューで彼がケン・ケリーに語ったところによると、バック・イン・ザ・USAをレコーディングしてた最中にメンバーが彼に反抗し、フレッドの側についたと。一体どういう状況だったんでしょう?

MD: そうも言えたかもしれないな。しかしフレッドがはっきりした形でリーダーシップを取ったことは一度もないよ。フレッドは自分のペースでフレッドのことだけやってたんだ。みんな車に乗り込んでさあ出発だって時、決まって奴だけいないんだ。この地球上に出現した生き物のうちで最も動きののろい生物だな。フレッドはフレッドが動こうと思うまで動かない。山火事に遇って炎がケツから10センチのとこまで迫ってきても、フレッドが逃げようとしない限り、誰も逃げちゃいけないのさ(笑)。誰も逃げないんだよ。あの時のことは、バンドがウェインのリーダーシップを拒絶したことにはならないと思うな。ただちょっと後ろに下がってフレッドにもイニシアティブを取らせたってことだ。あの3枚目(「ハイ・タイム」)は、フレッドのコンセプトに基づいたものだった。「フレデリコ・スミサリーニ風」ってわけだ。

KS: 名盤です。

MD: うん、すばらしいレコードだよ...あの時俺は個人的に、どんなものでもやってみたいって思ってたね。完成したときはうれしかったよ、ほんとに。

KS: ハイ・タイム以前はクレジットは全曲「MC5」でした。あのアルバムで初めて個人名が出てきたわけですが、それ以前は本当に全員で曲を作っていたんですか?

MD: そうだよ。「キック・アウト・ザ・ジャムズ」とか、あれ以前の曲はすべて全員で作ってた。個人的な仕事になったのは後になってからだよ。誰かが一つのメロディーを作った場合、その曲の作者として認識してもらいたいと思い始めたわけだ。それまではみんなで座って練習しながら、一つのグループとして曲を作っていったんだ。

KS: バック・イン・ザ・USAでランドゥーと作業をするのはどんな感じでしたか?

MD: 俺の人生で一番辛い作業だったな。ランドゥーはルーズなバンドと仕事をすることに慣れていなかった。奴はこう言ったんだよ。「ぶらっとやってきて適当にセットアップして始めるギグとは違うんだ。これはきちんとしたスタジオで録音する正式なレコードだ。全ての点を正しく正確に決めておかなければならない。」ランドゥーの関心は主に全てを「正しく正確に」行うことだった。音楽そのもののオリジナリティーは二の次なんだよ。わかるだろ、MC5は常に、その都度即興で演奏することで、激しさやドラマ、マジックを達成してたんだよ。それが俺たちのスタイルであり、音楽に対するアプローチの仕方だった。MC5をMC5たらしめていたのはそれだった。かなりの部分がルーズな形で創作され、完璧なテイクを取るなんてできる相談じゃなかった。それが大きな問題になった。俺たちは野生のケダモノみたいだった。それが受け入れられる限り、すごく魅力的であり得た、だが受け入れられないとなると...。ジョンは彼なりにいいレコードを作るために必要だと思ったことをやったんだよ。シンクレアがスタジオにやって来てそういうテイクの一つを聴いて言ってたよ、「最低だ!」あの時彼はバンドから離れていくところだった。刑務所に入るところだったのさ。

KS: ボンプから出ましたよね、(「アメリカン・ルース」)バック・イン・ザ・USAのリハーサルを録音したものが。どの曲も、もともとはそれまでのMC5のスタイルを踏襲して作られていたんだと感じましたよ。スタジオで録られたサウンドは、ランドゥーの創作だったんですね。

MD: そういう風に聴こえるのなら、それが正しいと思うよ。つまり、ミシガンのハンブルグって町に移ってバック...のために曲を書き始めた時、俺は心底興奮したんだ。フレッドが「トゥナイト」や他の歌を持って入って来て、俺たちはリハーサルを始めた。67年、68年に歌を作ってたのと同じ方法で、みんなが集まってグループとして完成させていった。ある曲のアイデアが提示されると、全員それぞれのパートを創作し始める。そうやって1時間も演奏してると本当にすばらしい作品ができあがり、早く発表したくてたまらなくなったね。あのアウトテイクはそうやって録られたものだった。しかしその後ランドゥーとスタジオに入って、どれも音を剥ぎ取られて、2分半のポップ・ソングにされちまったのさ。もっと経験のあるプロデューサーなら違ってたかかもしれない。だが当時はそんなことわからなかったしな。

KS: 聞いた話ですが、エレクトラを追い出された時点で、ブルース・ボトニックとすでに数曲録音していたとか?

MD: そうだよ!ロサンジェルスで録ったやつだろ、あれはどうなったんだか。アトランティックと契約する前に録音し、ランドゥーがMC5をプロデュースするっていうんで彼に送ったマテリアルはどれもエキサイティングでパワフルで宇宙的な、すばらしい可能性を秘めた作品だったんだ。俺たちは直前までそれをやってたんだ。それがミシガンのイーストランドにある、あのフザけたログ・ハウスみたいなアトランティックのスタジオに入ったとたん、俺が見たところでは全部ゴミみたいに捨てられちまったのさ。

KS: バック・イン・ザ・USAには「ルッキング・アット・ユウ」が入ってますよね。どうして入れたんです?

MD: あれが完璧な例だな。あの歌を当時もまだ俺たちはライブでやってた、そしてA-スクエアから出したあのバージョン、あれがMC5なんだ。あの曲はMC5がライブで演奏するのを好む、そのたびに変化する創作的な曲だったのに、誰かが「アップグレイド・バージョン」をやるべきだと考えたんだな。「リハビリ・バージョン」をな(笑)。

KS: 「ハイ・タイム」をレコーディングした頃にはバンドの状態はかなり悪かったと思いますが、作品自体はすばらしいものに仕上がりましたね。

MD: 驚きだよ。まず「キック・アウト・ザ・ジャムズ」で、ライブでやりたい放題やってラフなサウンドの極地をリリースしたかと思うと、次はその対極にある「バック・イン・ザ・USA」を、全く経験のない独断的プロデューサーがスタジオでつまらないコギレイなサウンドに加工してリリースした。そうやって2つの極端な経験を経た後に、今度こそどうするべきか、俺たちは突然悟ったんだ。「今回はうまくやれるぜ」って感じた。しかも今度はジェフ・ハスラムっていう、ずっと柔軟性のあるあけっぴろげなプロデューサーがついたんだ。クリエイティブな考え方をよく理解してて、ほんとにいっしょに作業がしやすい男だった。俺たちが何か試みようとした時、何か思いついた時、それをプラスに広げてくれるような人物だったよ。だからそれを形にするのにちょっと手を加えるだけでよかった。これがランドゥーとだと、何もかも最初っからあれやこれや値踏みされるんだよ、基になる新しいアイデアを提示しても。ハスラムの方は俺たちがやろうとしてることの可能性を見抜いて、バンドやいっしょにやってるプレイヤーが表現したいことが伝わるように変える手助けをしてくれるんだ。その頃、メンバーの私生活はレコーディングで顔を合わせる以外は、全く完璧にばらばらになってた。あんな混乱した状況に陥っていたことはそれまでなかった、そのくらいみんな混乱していた。不思議だよな、そのくせ作品はすばらしいってのが。いい曲ばかりだ、歌詞もほんとにすばらしい。演奏も見事だし、完璧なレコードだ。「スターシップ」みたいな曲が入ってる「キック・アウト・ザ・ジャムズ」とも違うし、詩の朗読とか実験的なことをやってるわけじゃない、かといって「バック・イン・ザ・USA」のロボットみたいなパワーに欠けた演奏とも違う。その中間地点に完成した完璧な作品だった。だが、そうやってやっと正しい道を見つけたときには、商業的にはもう遅すぎたのさ。今も変わらんだろ、つまりレコード会社にバッター・ボックスに立つチャンスを与えられて、2球空振りしたら3球目はホームランが求められる。それができなきゃ叩き出されるだけさ。

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