1月15日、Back In The USA がリリースされた。すばらしいトラックが何曲も含まれているし、1枚のアルバムとしてみればタイトなロックンロールの秀作と言ってよく、決して悪くはないんである- MC5のアルバムでさえなければ!シンクレアは完成品を獄中で聴いた。「私はもう、とにかく我慢がならなかった。」と後述している。

プロデューサーはジョン・ランドゥー。後にブルース・スプリングスティーンのマネージャーとして大成功を収めた人物だ。もともとロ−リング・スト−ン誌などに書いていたロック評論家であり、アルバムのプロデュ−スを行うのはファイブが初めてだった。彼はまた、アトランティックの創始者ジェリー・ウェクスラーの秘蔵っ子で、いわば頭の切れる若い先鋭的知識人の代表だったのである。ランドゥーは、MC5から政治色、反政府色を一掃し、このバンドを一般社会にも受け入れられるクリーンなロックンロール・バンドするという使命を帯びていた。ジョン・シンクレアが後に書いたところによると、ランドゥ−はそれをマインド・コントロールに近い状態で行い、若いバンドを懐柔することに成功したのだという。結果的に、バンドから政治色と共に野性的なパワーまでも失われてしまった。シンプルでタイトな佳作ではあったが作品全体の脆弱さは否めず、チャートでは最高位137位という期待外れの結果に終わった。結局クリーンなイメージを与えることにも失敗し、またランドゥ−によって滅菌消毒されたファイブは、昔からのファンにも見離されてしまう。6人目のMC5メンバーとも言えるJ.C.クロフォードを解雇したこと、ランドゥーをプロデューサーに迎えたことで、彼らはすでに多くのファンから反感をかっていた。

1月24、25日の両日、ジョン・シンクレアがコラム Rock'n'Roll Dope を寄稿していたデトロイトのアングラ新聞 The Fifth Estate の呼び掛けにより、シンクレア釈放を求める政治集会が開催された。グランディ及びイ−スタンという2つの大きなライブ会場で行われたこの集会にはデトロイトのバンド多数が集結し、前年にシンクレアとの関係を断ったMC5も参加した。 しかし、拘留中のシンクレアにメンバーが面会に行くこともなく、かつてあれ程結束していたバンドとシンクレアの関係はすっかり冷えきっていた。全てに絶望したシンクレアはやがて、獄中からMC5を糾弾し始めるのである。彼との人間関係が修復されたのは、ウェイン・クレイマーとの間でだけ、しかもずっと後の事である。

また、デトロイト社会及びバンドの中にヘロインが猛烈な勢いで浸透してきたのがこの時期だった。「突如として、ずっと簡単にハイになれるようになった」(クレイマー)「エコロジカルで進歩的なヒッピー達が、一夜にして、ぞっとするような、キチガイじみたジャンキーになっていった。」(トンプソン)ロブ・タイナーを除き、4人のメンバーは革命構想の挫折やアルバムの売上不振の焦燥をヘロインで紛らわすようになっていく。

3月13日、アトランティックから、Shakin' Street/American Ruse というカップリングで2枚目のシングル盤がリリースされた。(Atlantic 45-2724) しかし全くの不振でチャートの100位にも入らなかったのである。

MC5が初めての渡英を果たしたのはこの年の7月である。Phun City Festival に参加するのが直接の目的だった。ウェインはアメリカにおける混迷からの脱却を試み、ヨーロッパに活路を見い出そうとしたのだ。シンクレアとコミューンのもとを離れたファイブは既に経済的にも逼迫していた。この時点でバンドには8万ドルの借り入れがあったという。

ファンシティー・フェスティバルを企画したのは、ザ・デヴィアンツのフロントマンで後年ロック評論家・SF作家としても有名になるイギリス・ロック界の奇才、ミック・ファレンを中心とした人々である。ファレンがファイブと出会ったのはこの時が初めてだったが、この後、彼とウェイン・クレイマーは生涯を通じての朋友となる。

このフェスティバルをきっかけに、イギリスではちょっとした「革命ブーム」が起こる。ファレンが編集に携わっていたInternational Times などのアングラ・メディアが彼らの革命思想を信奉し出し、秘密結社「ホワイト・パンサ−党ロンドン支部」さえ結成された。

さらにこのような状況下、3枚目のアルバム、High Time のレコーディングが、デトロイトのア−ティー・フィールズ・スタジオにおいて背水の陣で開始された。

Photo used by permission of Mick Farren

4月、アメリカと南ベトナム軍がカンボジア侵攻を開始した。カンボジアはそれまで戦火を免れていたが、そこに潜む北ベトナム兵士と彼らの武器貯蔵所を発見するため、というのがアメリカの大義名分であった。この新たな戦火拡大はアメリカ全土に反戦運動の嵐を巻き起こし、上院議会はこれに対する予算支出を禁止した。しかし、ニクソンとキッシンジャ−は動じなかった。彼らは戦争を拡大し続け、「防御のための攻撃」と称して数々の爆撃作戦を実施していった。

学生運動に対する当局の弾圧も激しさを増した。ケント州立大学では、非武装の学生達のグループに照準を定め、国家警備隊が13秒にわたってライフルを発砲、4人が死亡、9人が重軽傷を負うというショッキングな事件が起きた。その10日後、ミシシッピ州の黒人大学、ジャクソン州立大学を警察とハイウェイ・パトロールが攻撃し、女子寮に向けて自動小銃を発砲して2人の学生を死亡させ、9人を負傷させた。

こうした弾圧に対し、革命家は地下に潜伏して爆弾テロを展開するようになる。モービル石油、IBMなどの大企業やいくつかの銀行が爆破され、ハイジャックが多発した。

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