1968年は、MC5にとってクライマックスとも言える最も劇的な年となった。この年の1月4日、シンクレアのプロデュ−スによる始めてのレコーディングがデトロイトのユナイテッド・サウンド・スタジオで行われ、このシングルは3月にA-Square レーベルからリリースされる。

A: Looking At You/B: Borderline (A-Square A2-333)

4月、マーチン・ルーサー・キング牧師が暗殺されると、デトロイト市警は暴動の発生を恐れ全市に夜間外出禁止令を出した。これが週末のギグを主な収入源としていたシンクレアのコミューンの経済を直ちにひっ迫させてしまう。やっと禁止令が解け、ギグのために彼らが出かけていた留守宅に、何者かが放火した。帰宅したファイブを待っていたのは、消防隊の明らかに度を超した放水によりくるぶしまで水につかった家だった。シンクレアはコミューンの移住を決意する。翌月トランス・ラブ・エナジーは、デトロイト中心部からおよそ40マイルに位置する学園都市、アン・アーバーのヒル・ストリート 1510番地に移転した。やがてMC5も彼らに合流する。

アン・アーバーの警察はある程度友好的だった。騒ぎを起こさないという条件で彼らは共存を許される。しかし電話は盗聴されており、彼らの行動はFBIにつつぬけだった。7月にはシンクレアとフレッド・スミスが逮捕される。出演料をごまかそうとしたザ・ロフトというクラブのオーナーとシンクレアが小競り合いをしているところに警官と刑事が現われ、シンクレアに暴行を加え始め、その騒ぎを聞いて駆け付け助けようとしたフレッドも彼らにメッタ打ちにされた。証拠写真を取ろうとしたファンのカメラを破壊し警察は2人を連行したが、保釈金を積んで彼らはかろうじて解放される。

やがて8月25日、シカゴのリンカーン・パークで民主党全国大会が開催されるのだが、これがMC5も巻き込んでアメリカ現代史に残る大規模な暴力的衝突に発展する。68年は大統領選挙の年にあたっていた。民主党は現職ジョンソン派の候補ヒューバート・ハンフリー、平和候補者ユージン・マッカーシー、6月に暗殺されたロバート・ケネディ支持者の一部を引き継いだジョージ・マクガヴァンの3候補に割れていた。しかもこの大会に集まったのは民主党関係者だけではなかった。ジョンソンのベトナム政策に反対する数千人の反戦活動家、さらにはアビー・ホフマンとジェリー・ルービンが1月に結成した「青年国際党」(Youth International Party, YIP)支持者すなわち、イッピー(Yippies)が「生命の祭典」と名付けた自分達の反戦集会を同時に開催するためにシカゴに集結していた。MC5はこのイッピーの呼び掛けに応じて反戦コンサートに参加するためシカゴにおもむいたのである。アメリカ全土のバンドが参加を呼び掛けられたが、グレイトフル・デッドやジェファーソン・エアプレインなどいったんは参加を表明したバンドも武力衝突の可能性に尻込みし、当日実際に姿を現したのはMC5だけだった。

Photo courtesy of Leni Sinclair

シカゴ市長リチャード・デイリーはこの民主党全国大会をシカゴ市を宣伝する絶好の機会ととらえていた。そのため何としてもこれを平穏無事に終わらせようとしており、反体制勢力を押さえ込むためには射殺も辞さずという姿勢でいたのである。デイリーの要請により、24時間シフトの1万2千人のシカゴ市警の警官、6千人のイリノイ州兵、7千5百人の軍隊がシカゴ市に大集結していた。また、デモの参加者を装った多くのFBIエージェントも多数加わっていたと言われている。これらが、何ら直接的行動に出ていなかったデモ参加者に突如襲いかかったのである。攻撃の標的はデモ隊にとどまらず、多数のカメラマンやジャーナリスト、老人や女性を含む通行人までもが襲撃された。警官や州兵が無防備な反戦活動家やマスコミ関係者を武器で打ちのめし、催涙ガスを浴びせるショッキングな映像がテレビを通じて全米に放映された。それはまたアメリカの一般国民がベトナム問題に関し「どちらの側につくか」という問いを突きつけられた瞬間でもあった。

市側による襲撃はMC5が数曲を演奏し終えた直後、25日の夜11時に開始された。ファイブは目の前でパニックが始まるのを見てとり、間一髪でその場から逃れたのである。アン・ア−バ−に命からがら戻ってからも、しばらく催涙ガスで涙が止まらなかったという。作家ノーマン・メイラーは、「マイアミ、そしてシカゴの包囲攻撃」の中で、このMC5のコンサートの模様を書き記している。2001年4月、BBCで放映されたヒラリ−・クリントンのバイオグラフィーをたまたま見ていたら、この民主党大会暴動の映像が突如現われた。警官による信じ難い暴力!ヒラリー自身は反政府活動家ではなかったが、68年当時法学生であった彼女はシカゴ近郊に住んでおり、この大会を「目撃」するために友人達と出かけて行ったのである。自分と同年代の学生達が目の前で警官に叩きのめされるのを目の当たりにし、ヒラリーは大変なショックを受けたという。

しかしシカゴ民主党大会の騒乱の中でMC5のステージに注目する男がいた。エレクトラ・レコードのA&R、ダニー・フィールズである。彼はほどなく、MC5がストゥージズとジョイントで行なったアン・アーバーのフィフス・ダイメンションでのギグにやってきて、その晩2つのバンドと契約をまとめた。9月22日、MC5は2万ドルの前金を手にしてエレクトラとの契約にサインしたのである。ついにメジャーのレコード会社に才能を認められたという事で、シンクレアやバンドはもちろん、ファンや周囲のアーティスト・支持者など彼らのコミューニティー全員が喜びに沸き立った。最初のアルバム録音の準備が直ちに開始され、10月30日と31日の2日間、グランディ・ボール・ルームでライブ・アルバムを録ることに決定した。この時録音されたのが、ロック史に残る名盤 "Kick Out The Jams"である。

Photo courtesy of Leni Sinclair

シカゴ民主党大会の衝突はシンクレアらに大きな衝撃を与えた。自分たちのライフ・スタイルが政治的に危険だとみなされていることが決定的になり、為政者の弾圧を逃れることが困難だとわかったからだ。その結果彼らは、政府に対抗するために自らをより「政治的な」組織にリフォームして他の左翼勢力と結束する決意を固める。こうしてキック・アウト・ザ・ジャムズの録音を終えて間もない11月11日、トランス・ラブ・エナジーを「ホワイト・パンサー党」と改名し、2つの反政府グループ、「ブラック・パンサー党」とイッピーとの連帯を表明した。同じ月、ブラック・パンサー党綱領10ヶ条に習い、ホワイト・パンサー党「テン・ポイント・プログラム」が策定される。また、シンクレアは「情報省長官」、J.C.クロフォードは「宗教省長官」というように、それぞれが独自の機能を与えられ、MC5は「ホワイト・パンサー党・ハウス・バンド」となった。彼らの目標は、ロックを通じて "Cultural Revolution"(文化革命)を達成することであり、ギグが始まる前には党のバッジが配布され、革命のスローガンが叫ばれた。現在一般に見られるMC5の写真の殆どはシンクレア元夫人、レニの撮影によるものであるが、中でも最も有名でインパクトがあるのが、当サイトの冒頭でも使用させて頂いた写真、5人が裸の胸に党のバッジをつけ、フレッド・スミスがライフルの弾丸を肩からかけているショットである。これも党のプロパガンダとして撮影されたものだった。

ファイブはこの頃ニューヨークを中心に東海岸にもツアーを行うようになっていた。特にニューヨークのオーディエンスはミシガン州以外で彼らを好意的に受け入れていた数少ない人々だった。そこでエレクトラは、12月26日、ニューヨーク フィルモア・イーストでのプロモーション・コンサートを企画・開催する。ところが演奏終了直後にオーディエンスの一部(ロウアー・イーストサイドに本拠を置く極度に暴力的な極左過激派グループ、「アップ・アゲインスト・ザ・ウォール・マザー・ファッカーズ」)が興奮して暴動状態となり、その混乱の中、1人のアフロ・ヘアーの男がプロモーター、ビル・グレアムの鼻を折ってしまうという不幸な事件が起きた。グレアムはその男がロブ・タイナーだったと信じ込んだ。もちろん全くの濡れ衣だった。グレアムといえば当時のロック興業界の「帝王」である。彼はもともと反体制バンドMC5のコンサートをブックするにあたっては非常に慎重であったが、ファイブは決定的にその不興を買ってしまったのだ。グレアムは直ちにアメリカ全土のブッキング・エージェントにMC5追放を発令。こうしてMC5はメインストリームのロック興業から完全に閉め出されてしまう。

ベトナムでは1月、太陰暦のテトの期間中に、北ベトナムが南ベトナム全土で攻勢に出て、各地の要所を制圧した。「テト攻勢」として歴史に知られるこの事件はアメリカ国民とホワイトハウスに大きな衝撃を与えた。間もなく月面に人類を送り込もうとしていた国家が50万の兵力をもってしても勝てないこの戦争の相手は、牛で畑を耕している国なのだ!アメリカ国民が自分達は政府にだまされているのではないかと疑い出し、多くのアメリカ人が、この戦争に負けるかもしれないと考え始めた。そうした中3月に「ソンミ村虐殺事件」が起こる。復讐に燃えたアメリカ兵が無抵抗のベトナム人女性と子供数十人を撃ち殺したのである。(軍の隠蔽工作によりこの事件は20ヶ月後まで公表されることはなかった。)3月31日、ジョンソン大統領はアメリカ全国民に向けてテレビ演説で、北爆の縮小と次期大統領選不出馬を発表した。

それから1週間もたたないうちに、マーチン・ルーサー・キング牧師が、白人の人種差別主義者によってメンフィスで射殺される。黒人にとって、夢を語る人が暗殺されたのだ。彼らの怒りは頂点に達し、全国168の都市で人種暴動の嵐が吹き荒れ、34人の黒人と5人の白人が命を落とした。

学生達の反戦/反政府運動も全国に拡大し、アメリカ全土の大学を震撼させた。警官隊が学生を棍棒で叩きのめす映像はテレビを通じて夜のテレビニュースで報道され、今まで何の疑問も抱くことなく不自由なく暮らしてきた都市中産階級や郊外、農村に暮らす人々も、自分達の価値観に対する敵意と脅威の存在を否応なく知らされることになった。

6月には、民主党の大統領有力候補、ロバート・ケネディ上院議員が若いアラブ・ナショナリストによって暗殺された。

こうした混迷の中、民主党に替わり、共和党リチャード・M. ニクソンが大統領に当選するのである。

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