シンクレアの支持を得るようになって間もなく、この頃までにMC5のメンバーはアーティスト・ワークショップ本部に移住してきて共同生活を始めた。当時「ウォレン・フォレスト」と呼ばれていた、ウェイン州立大学に程近いこのエリアには、アーティストやミュージシャンが多く住み、芸術的刺激に満ちた自由な雰囲気があった。2階建ての建物が建ち並ぶエリアがあり、それらの建物は1階が店舗スペースになっていて、ベトナム停戦委員会の事務所、左翼アングラ紙フィフス・エステイト編集部、アーティスト・ワークショップの本部などが入っていた。やがてそのうちの1つがMC5のリハーサル場になり、バンドはその2階で共同生活を営んだのである。
この年1月、デトロイト警察による大規模な一斉検挙が実施された。ターゲットとなったのは、シンクレアを含め彼の傘下にあったアーティスト集団や組織で、シンクレア夫妻を含め数十人が薬物所持で連行される。彼らはすでに公共の秩序を乱す集団として官憲にマークされていた。警察は常に彼らを監視し変装した捜査官を潜り込ませていた。ジョン・シンクレアこそ、MC5のメンバー全員の尊敬を集める「導師」だったわけだが、皮肉なことに彼との関わりを持ったことによって、ファイブの受難の全てが始まるのである。
組織としての結束を固める必要性を感じたシンクレアは2月になると、アーティスト・ワークショップ、フィフス・エステイトを始めとするアングラ紙、MC5を含め彼の周囲で活動していた全てのグループ、ミュージシャン、詩人、ライト・ショウのスタッフ、デザイナーなど、ありとあらゆるジャンルでクリエイティブな活動を行なう人間を包括した形のマルチメディア集団「トランス・ラブ・エナジー・アンリミテッド 」を組織した。この組織はまた、MC5とストゥージズのブッキング・エージェンシーも兼ねていた。
3月、前年に録音したMC5のデビュー・シングルが500枚限定でAMGレコードから発売された。何とかジャケットの写真だけでも見つけようと、ウェイン・クレイマーのウェブサイトに問い合わせたところ、クレイマー本人から回答をもらった。「ジャケット写真なんてなかったんだよ。ただの茶色い紙だったんだ!」2004年1月17日、アメリカのeBay オークションにこれが出た。しかも盤の状態は "near mint" である。おずおずと一応参加したけれど、予想通り直ちにアウト・ビッドされ、とうてい歯が立たないと思ったので降りた。10ドルで始まったオークションが10日後終了直前の攻防の末、342ドル、約3万6千円で落札された。
A:I Can Only Give You Everything/B:One Of The Guys (AMG AMG-1001)
"One Of The Guys" は、MC5初のオリジナル曲。この頃はまだラディカルな政治色など微塵もなく、フーの "Substitute" を思わせる内容のボーイ・ミーツ・ガール式ハイスクール・ソングである。A面はこの頃MC5が盛んにカバーしていたゼムのナンバー。2曲共に、リズム・セクションのウェイトが、ドラムとベースよりむしろ、ウェインとフレッドのギターに置かれているというMC5サウンドの特徴がすでに現れている。ビートを刻んでいるのは、2本のギターと、時としてロブのボーカルなのだ。また、この時同時に録音された、やはりオリジナルの "I Just Don't Know" は、MC5として初めてフィードバックを実験的に使用した曲。
MC5がバンドとして初めて警察の暴力を経験したのはその翌月、4月30日のことだった。ウェインの19歳の誕生日で、その日バンドはデトロイト川に浮かぶ小さな島、ベル・アイルでの野外コンサートを終え夕暮れの中を聴衆と共に引き上げるところだった。ところが陸に通じるたった1本の橋の上で、騎馬警官隊を含むデトロイト市警が道路を封鎖していた。そして、困惑する群集に向かって騎馬警官が突如ギャロップで近づいてきたかと思うと、騎上から手当りしだいに警棒で襲いかかったのである。「まるでポロをやってるみたいに」(クレイマー)警官は逃げまどう無防備なコンサートの客の頭上から手当りしだいに警棒で撲り始めた。命からがらウォレン・フォレストの自宅にたどり着いたMC5は、家に入るなり友人の安否を尋ねる電話を掛けまくったという。野外コンサートに参加していたというだけで、警官にメッタ打ちにされていた時代があったのである。「(あの事件は)黒人が白人を殺していたんじゃなく、黒人が警官を殺していたわけでもない。警官が全ての人間を殺していたんだ。」(クレイマー)
シンクレアはそれまでにも数回マリファナ所持で逮捕されていたが、当初なぜ自分たちが為政者や警察から迫害を受けるのか理解できなかったという。彼らは自分たちのコミュニティーの外で起こっている事柄には大して関心がなく、もっぱら音楽や詩やアートにおいて、従来の白人中心の西欧型文化を否定し、独自の新しい世界を構築しようとしていた。それが従来の社会システムと明らかに相反するものであることは認識していたが、積極的に対立しようとは考えなかったのである。なのになぜ警察が執拗に介入してくるのか。シンクレアはやがて、その新しい価値観、彼らのライフ・スタイル、彼らの「カルチャー」こそが、為政者にとって現実的、政治的脅威になっているという事実を知るに至る。
当時のFBI長官エドガー・フ−バ−は、カウンター・カルチャーの思想を「アメリカの青少年を堕落させようと謀るコミュニストの謀略」と位置付けていた。そして破壊と暴力によってそのムーブメント鎮圧に乗り出したのである。そのことを悟った時シンクレアはかえって、カルチャーによる「革命」を起こす決意を固めた。従来政治的・社会的には人畜無害だった「アーティスト」という集団が、社会制度に対して起こしたそれは紛れもない反乱だった。文化における意識改革こそが革命を成功させる土台を作るというのがシンクレアの理念となった。
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シンクレアの革命のシナリオの中でMC5も明確な使命を与えられていた。ファン・ベースを確立して人気グループになることにより、組織の財源となると同時に、ラジオ、テレビ、レコード業界、エンターテイメント産業に進出してそれらの媒体を利用し、「既成のカルチャーに対する全面攻撃」という組織のメッセージを伝えるというものであった。これに対し弾圧は日を追って激しさを増していく。夜になると一晩中建物の周辺をパトカーが徘徊し、窓の中に向かってスポットライトを当てるという全くの嫌がらせもあった。さらに警察の取締りに右翼による攻撃が加わるようになった。事務所にはイタズラ電話が頻繁にかかり、バンドのバンには爆弾が投げ込まれた。ギグの最中に警察が踏み込み、「騒音」を理由に電源を全て落としてしまうなど日常茶飯事だった。常に警察に監視され、ステージが終わると身体検査が待っている。ギグを終えてメンバーがウォレン・フォレストに帰宅すると、消防隊が建物を取り囲んでいることもしょっちゅうだった。同じ建物にベトナム停戦委員会やフィフス・エステイトなどの左翼紙のオフィスがあったため、しばしば火炎瓶や爆弾が投げ込まれるのである。
そのような状況下の8月、アシッド・ロックで全国的スターダムにのし上がったヘイト・アッシュベリーのバンド、グレイトフル・デッドがグランディでコンサートを行なうために初めてデトロイトを訪れた。彼らのマネージャー(ロック・スカリーとダニー・リフキン)に会ったシンクレアは、メジャーのレコード会社と契約を持つビッグ・バンドのマネージャーであるにもかかわらずそのあまりのロクデナシぶりに、「これなら俺にもできる」と自信を持った。翌9月、彼は正式にMC5のマネージャーに就任した。
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