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60年代中期ロンドンでミュージシャンとしてのキャリアをスタートさせたファレンは、60年代から今日に至るまで音楽シーンの内側からロックの変遷を目撃してきたいわば生き証人である。もちろん生き証人は他にも大勢いるわけだが、ファレンは文筆家でもあるから見てきたことを的確に表現する言葉を持っているのである。そういう意味で、最終的にMC5の話題からはずれているけれど、このインタビューはロックが好きな人なら誰でも興味深く読めると思う。
ケン・シマモト(以下KS):あなたは当時デヴィアンツにいたわけですが、MC5を知ったきっかけは?

ミック・ファレン(以下MF):サイモンって、クラブのDJみたいなことをしてる奴がいて、そいつがポートベロー・ロードのミュージック・ランドというレコード屋で働いてたんだ。ポートべロー・ロードは当時ロンドンの「ヒッピー・タウン」の中心地でね。で、そのサイモンがある日、俺たちがたむろしてた店の戸口の所に呆然自失とした感じでやって来て、「おい、ちょっとこいつを聴いてみろよ」って言うんだ。で、奴がかけたのが輸入盤の「キック・アウト・ザ・ジャムズ」だったというわけさ。それ以前に俺たちは、ローリング・ストーン誌 [1969年1月号] に掲載されたMC5の記事を読んでた。「何なんだ?こいつら?!」って思ったよ。で、初めてMC5の音を聴いたわけだが「俺たちより凄い連帯感でやってる奴らがいる」って思ったね。ファイブはフランク・ザッパよりサン・ラに影響されていた。その点が俺達と大きく違う点だった。おそらく、俺はザ・デヴィアンツの悪しき独裁者で実際に演奏する立場にいなかったから、もっと文学的な方向に傾いていたからだと思う。でもとにかく、MC5は明らかに「海の向こうの同胞」だとわかったよ。で、その後数カ月か1年くらいしてイギーを初めて聴いたんだ。それで、アメリカでも反逆が始まっているんだと知ったんだよ。

KS:1972年頃にデヴィアンツの「ディスポーザブル」を初めて聴いた時、ストゥージズのファースト・アルバムによく似てるなと感じたんです。何かつながりがあるのかなといつも思ってました。69年にツアーでアメリカに行った時、MC5に会ったんでしょう?

MS:いいや!何というか、もっと遠回りな形で出会ったんだ。ジョン [・シンクレア] が投獄された時俺は インターナショナル・タイムズというロンドンのアングラ紙で編集の仕事をしてたんだが、ジョンのコミュニケを発表しようということになって、その関係で彼に雑誌とか俺たちの出版物とか、要するに刑務所で彼が読めるようなケア・パッケージを送ったんだ。そのうちこっちも逮捕されたりして、そんなことでファン・シティーというとてつもなくヘンテコなロック・フェスティバルの開催を思いついたのさ。

KS:その時のMC5のブートを聴きましたよ。

MS:けっこう。彼らにとってもいいことだと思ったからね。当時MC5はバンドとしてうまくいってなかったし、ファン・シティーにファイブを呼び寄せるのは、彼らにとってもプラスになると考えたんだ。MC5の周辺はあの頃ものすごく混乱していたが、イギリスじゃ必ずしもそうではなかった、だから彼らもイギリスで何かやってみたいと思ったんだな。アメリカじゃ本当に壮絶な状況になってたんだよ、奴らは。そのうちに、知ってると思うが、ローナン・オライリーと関わるようになったんだ。

KS:ラジオ・キャロラインの創始者ですよね。MC5が解散するしばらく前、マネージャーのようなことをしていたと聞きましたが?

MF:その通り。まぁ、俺とファイブとはそういう風に始まったわけだ。ウェインと俺が飲み友達になったのもその頃だよ。1973年か74年頃で、俺はNMEに書き始めたところだった。その頃になるとアンダー・グラウンド・ジャーナリズムはもう基本的に経営破綻しちまってて、共倒れ状態だった。それで俺はNMEの仕事をし始めたんだよ。で、適当に出張をでっち上げちゃあ、いろんなレコード会社の金でアメリカに行ってたわけよ。そうするとデトロイトに寄ってウェインに会ってたんだ。ちょうどその頃だよ、2人で曲を書き始めたのは。ウェインがブチ込まれる直前だな。奴は俺に新曲がたくさん入ったテープを送って来て、その中に「ランブリング・ローズ」のクレイマー・バージョンなんかも含まれてた。ウェインが刑務所に入った時、俺はそのテープをスティッフのジェイク[・リビエラ]に送って、ウェイン・クレイマー・サポートのチャリティー・シングルをリリースしてもらったんだ。

KS:ウェインはそのおかげで出所した時まとまった金があったから、凄く助かったと言っていましたよ。

MS:ああ、それが目的だったからね。とにかくそれが俺たちが共作するようになった最初だな。ムショに入る前にウェインが送って来たデモ・テープは、ジェイクやデイブ [・ロビンソン] や、その他いろんな奴らに渡ったのさ。とにかく、それが俺とウェインのコラボレーションの始まりだよ。で、1979年に俺はニューヨークに移住して、その直後にウェインとダッチ・シュルツのプロジェクトとか始めたわけさ。

KS:MC5が与えたインパクトをどのように評価しますか?つまり、どうして今日我々はMC5に眼を向けるべきなんでしょう?意識する必要があるのでしょうか?

MF:MC5というのは基本的に、音楽の精髄に通じたバンドの一つだったからだ。しかも、これは限られた人間にしか感知できないことだが、ツイン・ギターを擁するバンドの最高峰でもあったんだよ。つまり、[シャドウズの]ハンク・マービンとブルース・ウェルチも非常に優れてはいたが、しょせんリズム・ギターとピッキング役という関係だったし、[グレイトフル・デッドの][ジェリー・]ガルシアとボブ・ウェイアの2人も、ギターの演奏としてはまた違ったレベルで似たような関係だった。ところがMC5のフレッド[・スミス]とウェインのギターというのは互いに競い合い、シンクする関係だったんだ。ほとんど同じレベルの技量でね。俺にはウェインのギター方が切れ味があるように思えたが、まぁその点は異論もあるだろう。多くの場合、ウェインの方が優れているように思えた。ところが、「アメリカン・ルース」の2番目のソロを覚えているかな?あの「ジョン・ブラウンズ・ボディ」ばりの非常に優れたソロだ、あれはフレッドなんだ!2人ともがリード・ギターだったんだ。互いに浮かんでは沈み、という具合に、ビ・バップのようには聞こえないが、あれはほとんどビ・バップの伝統に近い。断じてキース・リチャーズとブライアン・ジョーンズの関係じゃない。あの2人はベンチャーズや、あるいはそのイギリス版のシャドウズから派生したんじゃないんだ、言ってる意味がわかるかな。そういう点で俺はMC5に惹かれた。それとあのバンドをめぐる一連の騒ぎにな。そこへもってきて、MC5が存在しなかったらストゥージズはあり得なかった、「サーチ・アンド・デストロイ」もなかったし、70年代のパンク・ムーブメントを引き起こす引き金もなかったという厳然たる事実があるわけだ。今ブラーだのオアシスだのを聴いてみても、ファイブの「こだま」が聴こえるのさ。

KS:今では「ファイブに影響された」って言うのが一種、ファッションになってますよ。聞いた話ですが、ロブ・タイナーの娘がイギリスに言ってチャンバワンバに会ったら、熱狂的なMC5ファンだったそうですよ。

MF:チャンバワンバのリード・ボーカルはたいした音楽学者だぜ。そうなんだよ。この前イギリスに帰った時、奴と話をする機会があったんだ。あのバンドのマネージャーというのが俺の友人でね。で、そのリード・ボーカルの奴がまたよく知ってるんだよ、ファイブのマテリアルを。奴らのギグに顔を出したんだが、自分達のラップっぽいナンバーの真ん中あたりで突如 [フランク・ザッパ]の"We're Only In It For The Money" ってアルバムに入ってる"What's The Ugliest Part Of Your Body" を始めやがった。「この若造、わかってるじゃないか」って思ったね。自分がしてることがどこから来たのか、よく知ってるんだよ、奴は。

KS:10代、20代のロック・ミュージシャンでは珍しいですね。普通、ニルヴァーナあたりが始まりだと思ってますよ。

MF:我々イギリス人てのは相当なオタクだぜ。

KS:どうしてです?

MF:必死だったんだよ、俺たちは。ワケのわからん音楽の形式に着目し、我々の世界に見合うようにネジ曲げる、と、それを性懲りもなくず〜っとやってるわけだ。ボビー・ライデルだろうがファビアンだろうが、ブレイクしたきっかけはこっちが彼らを掘り起こし、聖火を掲げてアメリカ人に教えてやったというわけさ。

KS:ハウリン・ウルフから「シンディグ」を生み出した、と。

MF:その通り。そしてエリック・クラプトンはアメリカに出かけて行ってマヌケなアメリカ人にブルースをプレイするし方を一から教えてやらなくちゃならなかったんだ。なんかイヤになるよな、話が脱線し過ぎないうちに言っとくが、ザ・フーがいなければMC5も存在しなかったんだぜ。

KS:ピート・タウンゼントの話をしましょうか。例のアート・スクール一派のことを。彼らのような人間達が台頭してきたことでどういう影響を受けましたか?

MF:奴らの方が俺たちより先だったな。アート・スクールには俺も通ったよ。ピートは物凄く影響を受けたんだ、スティーブ・マリオットも...

KS:スモール・フェイセスのマリオットですか?!

MF:ああ...あいつも俺たちみんながあの頃聴いてた共通の音楽から出て来たんだ。ミンガス/ローランド・カークのアルバムみたいなやつ、"Mingus Oh Yeah"とかな、1965年頃だったかな。同時に、アンプやギターといった音楽機材が技術的に進歩を遂げた時期でもあったんだよ。知ってるだろう、そういうこととほとんど時を同じくして、ピート、ジェフ・ベック、スティビー・マリオットが出て来たんだよ、それからルー・リードだ。その後に我々がいて、そしてイギーってわけさ。みんな同じルートを辿っていたんだよ。基本的に非合法なヤカラ、でかいアンプをたずさえ、磁界を征服しようとした者共だ。

KS:若い奴らに特大のアンプとアンフェタミンを与えてやれば何か面白いことを始める、ってわけですか。

MF:その通りだよ!同時に、ミンガスや、サン・ラ、エリック・ドルフィー、オーネット・コールマンなんかが出て来た頃で、そっちの騒ぎも物凄かったんだ。で、そういう動きがいわば俺たちのムーブメントを「合法化」してくれたんだよ。こっちはイギリス人、ヨーロッパ人だったが、ジョン・ケージを意識してた。それからストックハオゼンなんかもな。で、最終的にはフランク・ザッパにダメ押しで刺激されたみたいな感じのものをやることになった。俺はデトロイトの奴らよりはるかにテープ・レコーダーに興味を引かれていたから。ループとかな。

KS:スタジオにおける音の実験に。

MF:そう、俺たちのファースト・アルバム、「プトゥーフ!」の大部分は、ジャック・ヘンリー・ムーアっていう年取った、いや、そんなに年寄りじゃなかったな、俺達よりってことだ、こっちはハタチそこそこだったから -- おそらく当時31歳じゃなかったかな、それでも俺たちには恐れ多い年齢だったが -- とにかくその男に触発されて作ったんだ。ロンドンのアーツ・ラボで活動していたアメリカ人のゲイで、我々をああいう具象音楽の世界に引き入れたのは彼なんだ。テープ・レコーダー3台を15フィートずつ離して置いて、同じテープを繰り返し流して一つのでかいループをつくり、掘削ドリルの音と組み合わせたりしてな、「わぁ、これってすてき!」なんて感動してるんだよ。確かにすごい音だったな。ピートはそのテのことに大きく影響されたのさ、1965年頃だ。「アート・シンポジウムにおける破壊」なんてイベントがあって、みんなでグランド・ピアノをブッ壊したりしてな。

KS: それって、グスタフ・メツケかなんかがしてたことですか?

MF: その通りだ。ジャック・ムーアはそれをやってたのさ。その時点で始めたんじゃなく、そういうことは前からやってたんだが、その頃初めてスピード・マニアックなティーンエジャーの怒りが、アートとして認められたということなんだ。

KS: おもしろい話ですね。トム・ライトって男がいて、今サンアントニオに住んでいるんですが、アート・スクール時代に正真正銘ピート・タウンゼントのルーム・メイトだったんですよ。トムはもともとアラバマ生まれのアメリカ人なので、1962年頃イギリスを離れたんですが、その際タウンゼントはトムが部屋に残していったレコード・コレクションをそっくりもらい受けたんです。結局ピートはそれらから、ボー・ディドリー、ハウリン・ウルフ、モーズ・アリソン、ニーナ・シモンといったアメリカのR&Bミュージシャンを知ることになり、それが彼の音楽に大きな影響を与えたというわけです。で、後日談なんですが、67年から69年にかけて、トム・ライトが何をしてたと思います?デトロイトのグランディ・ボールルームの支配人だったんですよ!

MF: 冗談だろ!

KS: MC5は疑いもなくフーのファンでした。アメリカの他の無数のガレージ・バンドと同じように「キャント・イクスプレイン」や「マイ・ジェネレーション」をカバーし、それでいてフーとは明らかに違う道を歩みましたね。

MF: そうも言えるかもしれんが、ピートの大げさなオーケストラ志向はともかくとして、MC5もスタジアムでコンサートをする機会を与えられていたら、フーと同じ道をたどっていたと思うぜ。[1982年に]フーが最初に解散した時、ビレッジ・ボイスに書いた事があるよ。シェア・スタジアムの解散コンサートでクラッシュが前座だった時だ。

KS: その評論は僕も読みましたよ。空軍にいて韓国に駐留してたんです。バカでかいステージの写真を見て、「そうか、奴らもついに魂を売り渡したか」って思ったのを覚えていますよ。(それもそのはず、その記事は実際「ザ・フー『完売』」と題されていたのだ。)つまり、聖火かなんかみたいにクラッシュを前座に持ってくるなんて。「さらば青春の光」を最後に飛行機事故で死んでくれた方がマシだった、なんてね。

MF: 俺がボイスに書いたのは、ザ・フーはアコスティックなマテリアルと、スタジアムでのパフォーマンスの折り合いを可能にした、という内容だった。そうしたら2、3週間後にピートが手紙をよこして、「ご明察。すごいな、それを指摘した人間はまったくきみが初めてだ。『ババ・オライリー』はそういう環境に合うよう作ったんだよ」と書いてあった。あいつは常になんというか、コミュニケイティブな奴だから、本当のことを書いて来たんだと思う。ただそのあたりから、大げさで大仕掛けなことがいろいろ始まってしまった。ザ・フーというのは元来とてつもないクラブ・バンドだったんだよ。現在残っている昔の映像を見れば分かると思うが、つまり奴らは恐いくらいの迫力だった、恐怖さえ感じるくらいの。

KS: そういう部分は大きな会場でやるようになってからも多少残していたと思います。ザ・フーというバンドを造り出しそして滅ぼしてしまったのは、アメリカに来てああいう膨大な数のオーディエンスの前でコンサートを行うようになり、彼らは一種自分達の力を認識した、しかしそれがあるレベルまで達した時、それをどう扱ったらいいか途方に暮れてしまったということだと思うのですが。

MF: そう、フィルモアくらいまでは、あそこはそれほどデカくない、あのくらいの規模だったうちはまだよかった。だが、ポンティアック・スタジアムみたいな所でやるようになった時点で変わってしまった。どのバンドにもあったことなんだ、レッド・ツェッペリンにも起こったし、誰にでも起こりうることさ。ストーンズにさえも、つまり、かろうじて持ちこたえてはいるが、それでも...

KS: そうなってしまう。

MF: 音を出すと、それが反響して返ってくるまでに2分かかる、そういう場所でやるわけだ。

KS: ちょっと想像しがたいですね。演奏者と聴衆とのインタラクティブな関係なんか期待できませんね。

MF: 何かが犠牲になるのさ。ウッドストックでのヘンドリックスだって、実際には目の前のプレス席に向かってプレイしてたんだぜ。そうしたくもなるよな、見える範囲の人間に集中する、と。しかしそれが続くと演奏する側も慣れちまって、大げさなテクニックを駆使するようになる、そしてノロくなっちまうんだ。キース・ムーンを殺したのは結局それだよ、ザ・フーがノロくなったという事実がな。奴はあくまで毎分どれだけビートを刻めるかってペースで叩いてた、なのにリズムのアクセントはどんどん緩慢に広がっていった。かわいそうに、キースはとにかくその間を埋めようと必死で、懸命に、とにかく叩き続けたんだよ。

KS: ビートで死んでしまった。

MF: そういうことだ。

KS: 70年代の多くのロック・バンドに起きたことですね。テンポが遅くなった。そう言えばしばらく前にエントウィッスルを聴いたんですけど、フォートワースのクラブで「キャラバン・オブ・ドリームス」ってとこで。で、あのバカでかいテキサス・スタジアムでやるのとたぶん同じボリュームで弾いてるんですよ、彼は。

MF: よくあることだよ。

KS: あれで育ったわけですからね、彼は。

MF: いや、もう、ほんとに耳から血が出るかってくらいだったぜ、奴らがマーキーでやってた頃は。ピートはハイワットの2段積みを2台使うんだ、まだ「スモークスタック・ライトニング」なんて曲をカバーしてた頃だぜ。「完全に」イカれてたよ。奴はその2台を引っ張ってきて向かい合わせにして、その間に例のリッケンバッカーを突き刺すんだよ。リッケンバッカーってやつは中がガランドウだから、とにかくほとんどコントロールが効かないギターなんだ。それを突き刺したままにしてな、他の機材をブッ壊し始めるんだよ、ムーニーはドラムを蹴散らす、見てる方はとにかく「すげェ!」って思うよな、しかもそこにいる全員、こっちもドラッグでアタマがおかしくなってて、そのすばらしく聴こえることっていったらなかったよ。それこそが、ザ・フーが俺たちに与えたインパクトだった!「こんなこと、してもいいんだ」っていう気持ち。そういう気分が1966年をピークとして、俺たちの間を駆けめぐったんだよ。いろんな奴らがスポットライトの下にやって来て、文字通りどんなことでも可能なのを確信させてくれた。俺たちの感覚だと、まずフーがあり、やがてヴェルヴェット・アンダーグラウンドがさらに奇妙なことをやり始めた。するとまた別の方向、ローサー・エンド・ザ・ハンド・ピープルがやってるものに耳を傾け始め、そしてサーティーンス・フロア・エレベーターズを知って「すげぇ!」となるわけだ。誰かが何かをやり始めると別の奴がやって来て似たようなことをやり出し、その行為が公認されるみたいになる。そしたらもうそれは「ムーブメント」だ。すばらしかった。

KS: そういう感じを現在想像するのはむずかしいですね。69年頃からロックはビッグ・ビジネスになってしまい、以来すっかりマーケティングと聴き手のセグメンテーションの世界になってますよ。人々に共通の価値観を抱かせ、カリフォルニアとデトロイトとロンドンの人々をいわば連帯させる、そういうことはもうないんです。

MF: おかしな話だよな、遺伝子か水か、ドラッグのせいかもしらんが、何がジミ・ヘンドリックスを産み出した?彼が出現したという事実、世界中のギタリストが「なんてこった!」と思い、やがてヘンドリックスに慣れてきた頃にシド・バレットが出てきて別の方向性を持った全然違うことをやり出し、足を踏み入れることが可能な、しかし全く異なる風景を目の前に描き出してみせた。そういう風に続いて行ったんだ。もちろんその過程においてさまざまな試行錯誤があって、「オーケイ、ギターをこうするのか、じゃ、これにフィル・スペクターのテクニックを加えたらどうなるかな、そしたら『何が』起こる?じゃなけりゃ、全部ひっくるめて『後ろ向き』にしてやれ!」とかな。

KS: 無限の可能性があるわけですね。

MF: そうさ、最初にカンバーランド・ギャップを通った西部開拓者の心境だよ、「すごい!この国土の広さを見ろよ!」って。だが、そういうことは新たな処女地を発見しない限り2度と起こらないわけで、そんな大地が発見されることはおそらくもうないだろう。あれはロックンロールにとってすばらしい時代だった、だが今それをノスタルジックに嘆き悲しんでも仕方がない。あの興奮が再現されることはもうない、2度と起こらないことなんだ。本当に、実にすばらしい時代だった。決して今の時代に起こっていることを見下してしているわけじゃない、しかし俺の信念としてあるのは、創作活動というのは、限られたソースにあるいろんなものをくっつけたり、混ぜ合わせたり、並べてみたり、そこから引っぱってきてみたりという行為なんだ。ところが今の時代、ソース自体がたくさんあり過ぎるんだよ。ベンチャーズの「ウォーク・ドント・ラン」と「ヘイ・ジョー」の間にはせいぜい6,7年しかないんだぜ、まったく恐ろしいくらいだよ。

KS: 1945年から65年の間に音楽が遂げた進化を考えると、その後の20年、さらにその先の20年間には、いかにわずかな変化しか起こらなかったのかと思いますね。

MF: 宇宙開発みたいだろ、月面に着陸した、その後は「う〜ん、この先は何ができる?」ってな。

KS: 人類にとって大きな一歩の後はわずかな進歩、というところですね。

MF: そうだよ。

KS: どうなんですかね、そういうクリエイティブな試みが始まっているとしたら、ヒップ・ポップとかアンビエント・ミュージックの分野かもしれません。どっちも僕はよく知らないエリアなんですが、とにかくマーケティングとかパッケージングとかいったものがそういう試みを阻んでしまっているような気がします。

MF: 仮にそういう動きがあったとして、きみも知らない、俺も知らないということであれば、それは十分な力を持ったムーブメントとは言えないってことさ、つまり60年代当時、俺たちは「確実に」そういう動きを感じ取ることができたんだ、わかるかな?確かに当時でもサン・ラだのエリック・ドルフィーだの聴いてる人間はごく一部だったよ、しかし彼らがジョン・コルトレーンやジミ・ヘンドリックスに与えた影響は絶大だった。そりゃ現在でもコルトレーンやエリック・ドルフィーを信奉する奴らはいるだろう、しかしそこからジミ・ヘンドリックスが生まれ出ることはもうない、ってことだ。望みを捨てることはないがね、だって人間1人の人生で、メシアはそう何人も出てくるわけじゃないからな。

KS:メシアの基準にもよりますね。僕自身正直に言えば、ミンガスやドルフィーの名を挙げられましたが、MC5がいなかったら、ああいう人たちの音楽を聴くことはまずなかったと思います。ファイブが彼らをインフルエンスとしたこと、そして彼らの名前をクリームなんていう雑誌で挙げていたからです。当時僕はロング・アイランド在住の少年だったわけで、さもなければああいう音楽を聴くことは絶対なかったはずです。

MF: そこもポイントだよ、つまりクリームがあった、クロウダディーが、先駆者のローリング・ストーンが、そういういろんなものがあった。マルチメディア的に形成されていったんだ。プリント・メディアがなければそういう音楽を聴くことはなかっただろうし、他方FMラジオが何の規制もない状態で発明され、直ちに先鋭的なDJ達に占拠された。彼らは30分もかけて1枚のアルバムをそっくり放送したんだ。当時ラジオ局についてのジョークがあったよ、「サッド・アイド・レディー・オブ・ザ・ローランズ」(B. ディラン)をかけたから、ゆっくりクソでもしてくるか」ってな。

KS: ラヴィ・シェンカーが出て来たことで、クソどころか、屋上でマリファナ1本吸う時間ができたわけですね。2本かも。

MF: そういうことだ。そして印刷物があり、LSDとシンクするよう合成されたライト・ショウがあり... いろんなもの全てを、あらゆる側面で混ぜ合わせるムーブメントだった。

KS: 昔のクリームのことを友達と話してたんですけどね、書かれている内容が非常に高い水準だったと。つまりあのレベルと比較すると、今日の音楽評論なんかゾッとしますよ、レコード会社の回し者でしかない。それかタバコ会社か、アパレル企業の。

MF: 今ほとんどの音楽雑誌を支配してるルールは「個性を出さないように書け」ってことだね。そんなことレスター・バングスに言ってみろよ、奴に殴り倒されてたぜ。他のいろんなものと同時にレスターが存在したのは大きかった。音楽をありのままにとらえ、起こっている現象に何か疑問を投じれば、彼は非常に適格な言葉で説明を加えてくれた。ただしルー・リードの「メタル・マシン・ミュージック」を聴けと勧められたのはイタダケなかったな。作品としては認めるけど、夕方ビールを飲みながら聴くサウンドじゃないぜ。

だが、そう悲観したものでもない、なんというか...池に石を投げ込むだろ、最初のさざ波はすごく大きくて波紋も大きくはっきりしてる、やがて拡散していき波紋もゆるくなっていく、だが実際にはさらに大きなエリアをカバーしているんだ。だからこれは一種、代償を払うかどうかということだな。800万枚売りたければ必然的にソニーやらなにやらを使わなきゃならんってことだ。

KS: いい作品を作っている人たちはたくさんいると思うんです。ただ、それを正しく評価してくれるはずのオーディエンスに作品が必ずしも届いていないんですよ。マーケットを牛耳っているのは5、6社ですから。インターネットで変わるんですかね。

MF: そう思うよ。今じゃ全てがものすごくデジタルに、エレクトリックになってるだろ。楽観的でさえあるよ、俺は。ここ2回程「プトレマイック・テラスコープ・フェスティバル」でデヴィアンツのギグをやったんだ。非常に限られた興味に基づいて集まった人々による一種カルト的なイベントだがね、今後参加者は増えると思うが。一種の孤立集団が形成されることになるだろうな。しかしみんなやがてそれに飽きて、ある種の逆行現象が起こることになるだろう。繰り返しなんだよ、でもそれでいいんだ。

KS: いろんな国に少しずつ支持者がいますよね。そういう人達とどういう風にコミュニケーションを取っていったらいいんでしょう?どういう方法で彼らに作品を届けるべきだと?

MF: そう、知ってると思うが、60年代後半にはオーディエンスの規模というのはかなり小さかった。つまりドアーズでも数千人規模だった。だからこそ彼らは「魔力」を保てたんだよ。いくつかのロック・フェスティバルを除けばハリウッド・ボウルが奴らがやった最大の会場じゃなかったかな。ロック・フェスではドアーズは一種、アナクロだったしな。とにかく、全体としてドアーズのレコードの売上ってのは今に比べて全然低かったわけなんだよ。

KS: デヴィアンツは今年日本に行くんですよね?

MF: ああ。あと約4週間だ。

KS: バンドのメンバーは?

MF: 俺とギターのアンディ・コルクホーン。あと今回はベースにダグ・ラーン、ドラムにリック・パーネルだ。基本的にウェインのリズム・セクションだな。

KS: ウェインのツアーがキャンセルになってしまいましたからね、彼らとしても何かしなければね。ジャック・ランカスターはどうなんです?関係してないんですか?

MF: 今回はな。

KS: ジャックは何をしてるんです?まだロサンジェルスにいるんですか?

MF: いるよ。

KS: あなたがロサンジェルスに住んでる理由というのは、映画やテレビですか?

MF: みたいなもんだな。ニューヨークに8、9年いたが、離婚して住む場所を探してたんだ。又貸みたいな所を見つけて、ガールフレンドがそこに移って来たので「うん、これでいってみるか」って思ったんだよ。住み始めた頃はなんか嬉しかったね、ほら、ニューヨークと同じくらいの家賃で、もっと広い所が借りられるだろ、ありがたかったよ。映画の件にはいささか失望してる。2、3人の人間の間でいろんな計画が持ち上がり、俺がロスに引っ越して来てから3年くらいしてアンディーが移ってきて、それまでしていたことの延長みたいなことをするようになった。

その頃からだよ、俺がロックンロールとスポークン・ワードの組み合わせに物凄く興味を抱くようになったのは。ただし伝統的な手法ではなく、それでいて切れ味と激しさを失わないように、それを目指してずっとやり続けていると言えるな。しょっちゅう後戻りみたいなことをさせられるがね。もうすぐ日本に行くわけだが、数曲は全くのストレートなロックンロールをやることになるだろう。そうして欲しいんだよ、あちらでは。誰も彼もが古いナンバーをやって欲しがるから、こっちは新しいマテリアルをいわばその間に滑り込ませて、俺たちが現在進行形でやってるのはこっちなんだと気付かせなけりゃならない。正直言って、30年も前にやってたことについて話したり、それをプレイしたりするのには、全く心の底からヘキエキしてるよ。少しおかしいかもしらんが。俺は「昔」じゃなく「今」に興味があるんだ。なのにうんざりするくらい「昔」のことを質問されるのさ。

KS: そりゃそうですよ。それがあるから、みんな現在のあなたに興味を抱くんじゃないですか。でも現在進行形でいろんな活動をしていますよね、小説と詩を書き続け、ギグも数多く行っている。

MF:  その通り。やり続けるだけだよ。ただし昔とは違う。俺は54歳で昔のように軽快でも(あるいはクレイジーでも)ない。何事もそれぞれに変化していかなければいけないんだ。その一方で、ジョニー・キャッシュみたいな人間を見て「うん、ああいうのは面白いな」って思ったりする。俺が死んでもやりたくないのは、ミック・ジャガーみたいにカッコよくキメられないのを嘆きながら、この年でステージの上で飛び跳ねたりすることだよ。もっと重要なことがあるだろ、話すんだったら、文明の差し迫った危機とかさ。(昔はそんな話ばっかりしてたが。)

前進していくんだ。前進しなきゃいかん。泳ぎ続けなければ死んじまう。エリック・バードンがやってるみたいなことは、絶対したくないわけだよ。最初に「朝日のあたる家」とか30分やって、次の30分はジム・モリソンの「ロード・ハウス」なんかを歌い、みんな喜んで喝采してビールを飲んでさ。それはそれでいいよ、だがイージーな「逃げ」だね。そういうのは、いいか、何をやろうと昔を再現してるんじゃないんだ、自分がパロディーになってるだけなんだよ、若く健康でクレイジーだった昔の自分のな、そして相変わらずの持ち歌を繰り返すだけなんだ。今回のこの日本ツアーだってブルー・チアーと一緒なんだぜ、まったく「オイオイ」って感じだよ、タートルズとどっかのバンドの抱き合わせみたいなもんだ、で、まさしくそういう意図なんだよ。だがどこかで歯止めをかけなけりゃならなかった、俺たちは絶対1968年のナンバーを全曲やるつもりはないぜってな。冗談じゃない。去年書いた歌だけどな、"Away We Go"っていうんだ。それでもし日本が気に入らなけりゃファック・ユーだ。イアン・デューリーが歌ったのと同じだよ、「最初の晩がうまくいけば、全ての夜のギグが元気づけられる」。アート・スクールの伝統でもあるんだ。ピカソが言うのと同じだよ。「ああ!クソッ!こんな青い絵ばっかり、もうウンザリだ、なにか他のことをやってやる!」そうならなけりゃいけないんだ。毛主席が言ったように「継続する革命」さ。

KS: 日本ではどんな客が集まるんですかね、興味があるな。

MF: ふだん通りだろ。マジメな青年達だよ、基本的に。彼らはよくわかってるよ。まあ、想像の範囲で言ってるだけだがね、だがおそらくそういう状況だと思うよ。

KS: 日本は初めてですか?

MF: うん。

KS: 近いうちに何かレコーディングの予定は?

MF: なんというか、レコーディングはいつもやってるんだよ。ここ数年間のギグで録音したライブのマテリアルを、俺とアンディー、フィル・テイラーの3人で録音したやつと混ぜ合わせて、日本のキャプテン・トリップがリリースしようとしてるよ。["The Deviants Have Left the Planet"]残念ながら今回フィルを日本に連れていくことはできないんだ、奴が持ってる米国滞在資格ってのがいささか怪しくてね、それがはっきりするまで奴はアメリカから出国できないのさ。それにあいつはかなりイカれてるからな。それで今回はリックとダグと行くことになったんだよ。あの2人はすごく対応が速くて身軽だし、ウェインのバックで長いこと一緒にプレイしてるからお互いよく知ってるし、そいうことで数百回もリハーサルしなくてすむってわけだ。

KS: 2人ともデスレイ・テープに参加したんですか?

MF: ダグはな。リックは違う。だが彼はジャックとやってるんだ、"GenX"とかな。2人ともいわばエキスパートだよ。ダグはアメリカ人だ。リックはイギリス人で、スパイナル・タップにドラマー役で出演したんだぜ。バスタブの中でインタビューされてた奴だよ。物凄くいいドラマーだ。ほとんどジャズに近いな。というわけで、ザ・デヴィアンツは一種、浮かぶ落ち葉の寄せ集めゲームになったのさ。同じメンバーを引っ張ってくるんじゃなく、俺が今興味を抱いていることを理解し、共鳴してくれる奴らを集めるわけだ。引退してるラッセルやサンディーを引っ張り出すんじゃなく。

KS: ラス・ハンターやダンカン・サンダーソンは現在でも音楽活動を行っているんですか?

MF: ピンク・フェアリーズをまたやろうって、ずっと脅かされてるよ。実際奴らはやる気満々なんだよ、だがたいがいラリー[・ウォリス]が台なしにしちまうのさ。

KS: 彼は今どこにいるんです?

MF: 自分の部屋にいるんだろ、いろんなモノを台なしにしながらな。あいつは折に触れていろんなプロジェクトを思い付くんだが、それを具体的にしようって段階になると怖じ気づくんだよ。失敗に対する恐怖感が、完璧、あいつをダメにしてるんだ。

KS: 残念な話ですね。才能ある人なのに。

MF: そうさ!全くタカラの持ち腐れだ。全くやるせないよ。だが、ラリーって奴は、わかるだろう。すばらしいマテリアルを持ちながらそれを缶の中にしまい込んじまって、日の目を見ることはないのさ。何年もそんなことをやってるんだよ。だって奴は、ったく、ほとんど20年も前に自分のスタジオを持ったんだぜ、俺たちが「バンパイヤ」だの「スクリュード・アップ」だの録ってる頃から自分のスタジオを作り始めたんだから。スティッフのためにアルバム丸々1枚そこで録音し、そしてデイヴ・ロビンソンと信じ難いような戦いがあったわけだ。そっちのトラブルだって金輪際報われず、足かせになってるんだよ。

MF: 多くのアメリカ人音楽関係者は、ラリー・ウォリスはスティッフの件で消滅してしまったと解釈しています。その後あなた方と長い間一緒にやっていた事は確かですが。

MF: ああ、だが奴はいつだって酒で大失態を演じてダメにしちまうんだよ。

KS: ポール・ルドルフから連絡はあるんですか?

MF: まあな。時々思い出したみたいにEメイルが来るよ。俺はあいつのウェブサイトをチェックし、あいつも俺のページを見てる。俺たちが本当の意味で友達だったことはないんだよ。だって、ほら、オリジナルのデヴィアンツが解散したのだって、俺と奴が対立したからなんだぜ。だから厳密に言えば友達じゃない。距離を置いた友人だよ。

KS: あの人はトゥウィンク一派ですよね。

MF: みたいなもんだな。知りたくもない一派だがね。トゥウィンクってのは、俺も少しは理解するが ... そう言えばウェインの新譜リリース記念ギグで奴を見たよ。「げっ、トゥウィンクが来てるぜ」ってな。引っ越したらしいがな、ヴァレーかどっかに住んでるらしい。

KS: 彼から逃れられないんですね。

MF: ダメだね。アライブから何か出すらしいな、ある意味で歓迎してるだろう。俺たちが今やってる最高に出来のいいマテリアルだって、日本から出るっていうんだからな、なにか妙な気分だね。まあ、時代はグローバルだからそのアルバムはあっという間にすぐそこのレーンズ・レコード・ショップに並ぶことになるがね。全くすごい世の中さ。

KS: その、レコード店に作品を並ばせるってことは戦いの半分を占めると思いますよ。その点アライブやボンプっていうのはなかなかの手腕で知られていますよね。だけど、日本モノというのはどうかなぁ...全ての種類のCDが太陽の光の下に並べられているはずのマンハッタンのバージン・メガストアに行きましたけど、日本のCDは地下に、一種ゲットー化された状態で押し込められているんですよ、誰も行かない輸入盤のセクションに。

MF: なるほど。

KS: あなたのウェブサイトはどういう状況です?たくさんのヒットがありますか?

MF: まあな。1日十数人ってとこかな。

KS: 音楽関係のファンですか、それとも小説の方かな。

MF: 全くわからんね、実際にコンタクトしてこない限りな。どういう人間が見てるのか全くわからんが、最近俺が望むのは、時間が経つにつれて均質化してくれればいいな、ってことなんだ。小説に偏見を持つ者もいるし、音楽に偏見を持つ者もいる、しかし多くの奴らが「全て」に関する質問をしてくるようになりつつあるんだ。なんていうか、適切な形で織り合わされていけばいいなと思うよ。「あなたは小説家のミック・ファレンですか?ザ・デヴィアンツにいたミック・ファレンですか?」って尋ねられることに飽き飽きしてるからな。どっちもイエスなんだよ、もちろん。

KS: 例のテレビ・コマーシャルですね。ミント味のキャンディーであり、キャンディー味のミントだと。

MF: 今の予定としては、日本から帰ったらすぐアンディーと俺とで...今もちょうどパソコンのディスプレイで見てるところなんだが、「ジム・モリソン/死後の冒険」て小説の最後の仕上げをしてる最中でね、題名の通りの内容なんだが -- モリソンの相棒はドク・ホリデーなんだ -- で、とにかく日本から戻ったらアンディーと2人でこの小説の数ページを題材に曲を作ってな、出版元に送りつけてやろうと思ってるんだよ。アンディーのギター1本と俺のスポークンワードでその曲をライブで演奏するっていうプロモーションをやらせろってな、国中の本屋と大学でそれをやるからカネを出せってわけさ。で、その曲は録音されて残るんだから、いつか何らかのミックスを加えて他の曲とくっつけたりして、リトアニアあたりの誰かがリリースする可能性だってあるわけだ。わからんだろ?

そういう風に展開していくんだよ、だって今の俺の本業は圧倒的に文筆業だが、ものを書くって作業はウンザリするくらい退屈なんだ。部屋にこもって一日中書いてるなんてのはな。だから外に出て朗読を行う、と。それも単に演壇の前に立って、あちこち身体を動かしながら一握りの聴衆に向かって朗読するなら、バックにバンドをつけて、あるいは少なくともギターを一本つければずっとノリがいいに決まってる。非常に重要なことだ。小説を書くという行為を、おそらくは13世紀の姿に戻すわけだ、中世の吟遊詩人の世界にな、その時代は紙に書かれた内容そのものと同じくらい、パフォーマンスの仕方が重要だったはずなんだ。

KS: ホーマーの時代、口承の伝統ですね。

MF: ある種のな、だが特別なことじゃなく、みんなだんだんそういう手法に慣れてきてると思うんだよ。U2とか、カート・コバーン、そしてウィリアム・バロウズと活動していた人間たち、彼らが同じことをやってくれてる。コバーンとバロウズは死んじまったがな。しかし、バロウズが死ぬ前の6、7年に録音したものが引き起こした反響を見ると、新しい動きが始まっているとわかるんだよ。酒を飲みながら聴きたい音楽だとは思わんが、ラップってやつ、あれも実に大きく貢献したな。それまではパティ・スミスにしか許されなかった、歌詞を歌わずに伝えるって手法をそれほどおかしな特別なものとは感じさせなくしてくれた。

KS: 今じゃビートに乗せて熱弁を振るう、っていうのは当たり前になってきてますよね。

MF: それだよ!ただし俺は、アイス...なんてったっけ、あのラッパー、あのアイスなんとかじゃなく、もっとシェークスピア調だってわけさ。

KS: 僕の娘はあなたのことを、あの上品な英語をしゃべる俳優、ジェレミー・アイアンズの「ワルモノ版」みたいに聞こえるって言ってます。

MF: それを目指してるんだよ!どこぞのカリフォルニア出身者みたいなオゲレツな喋り方を学ぶって教育を受けなかったもんでね。その通りさ。

とにかくそれが俺たちがしてることなんだ。しかもアピールするはずなんだが...まあ、多数の聴衆を集めるとは思わんがね。だがわからんだろ。

KS: 60年代とあなたの世代に関して僕が持っている観念は、あなた方と20年後の世代との相違は、触れる文化的教育の内容だと思うんです。あなたが受けた教育は違ってました。今20から25歳の若者が触れる文化といったら、MTVとそしてメディアがスプーンで口に運んでくれる情報がほとんど全てなんです。

MF: 恐ろしいな。教育というのは大切なものだ。いや、マジメな話、つまり学校教育なんてのはどうでもいいんだ。自分にとって価値ある物をあちこち必死で捜し回らなきゃいかん。学校じゃ誰もウディー・ガスリーなんか教えてくれなかったぜ。で、俺にガスリーを教えてくれた人間は2人いて、ラジオではロニー・ドネガン...きみはアメリカ人だから彼の事はよく知らんだろう。

KS: スキッフルの人ですよね、「ロック・アイランド・ライン」を歌った。

MF: その通りだ。そしてもちろん、もう1人はアレクシス・コーナーさ。レッドベリー、ジョン・リー・フッカー、ハウリン・ウルフを教えてくれたのは彼なんだ。それからみんながローリング・ストーンズかヤードバーズになろうとし始めたってわけさ。学校なんかクソ食らえっていう雰囲気は常にあった、しかし何らかの形で、学校を欠席する変わりに、自分自身に教育をほどこしていたんだ。わからんな、何も起こっていないように思われる一方で、MOJOを読んだり、俺以上にシド・バレットのことを知ってる25歳の奴らに出くわしたりする。望みはかなりあるよ。

KS: 若い人たちはいつも好奇心を持ってますよ。問題は、彼らがどんな情報ソースを見つけられるかってことなんです。

MF: ああ、他の言葉が見つからないから使うが、何が「アート」なのか、人為的に宗派を形成することだけは避けなくちゃいかん。パンクから受けた批判を克服するのにはいささか時間がかかり過ぎたな、手間取ったよ。少しずつ変化してある日突然...いや、今でもまだ不十分かもな。つまり、俺が35歳の頃、クラッシュのミック・ジョーンズは25だった。それが今じゃ、俺たちがいくつだろうとどうでもいいわけだ。

KS: どうでもよくなるある地点に達するんですね。その地点を知り、自分ができることをする。

MF: ある人物によれば、俺たちは今じゃみんな「酔っ払いのオヤジ」だそうだよ。そうやってレッテルを貼って線引きしてしまう、パンクはカッコよくてヒッピーはダサい、とかな、そういうのがいかんのだ、有害だよ。だってクラッシュでさえパンク以外の音楽をやり出し、最後の方にはいささかサイケデリックになっていた、奴らがその頃やろうとしていたことはすでに...奴らはその時点で気づいてたんだよ、そして自分らが少し前にやってたことを振り返ってたら、学んだこと全てを取り入れて利用することができたはずなんだ。だがその「少し前」ってのが常に大きな問題なんだよ。ハンク・ウィリアムスに立ち戻るのは簡単さ、文化的偏見なしで見られるから。だがほんの6,7年前に起きたことを見ようとすると、オエーとなるわけだ。今じゃおそらく「あのシアトルのロックはヒドかった」って言って回ってる連中がきっといるぜ。老いるってことはな、ひとつには物事に対する視野が広がるんだよ。何もかもが存在価値を帯び、そして...チェックのシャツ派がいなくなったのは嬉しいけどな。

KS: ロリー・ギャラガーにとってはいなくなってませんよ。

MF: ハハハ。

KS: 6,7年ていうのは流行遅れになるに十分な期間ですね。30年はレトロになるに十分で、今じゃグレン・ミラーがコンテンポラリーなんです。

MF: そうだな。だが反面、パンクにも正しい部分はあったよ。「テン・イヤーズ・アフター」は確かにほんとにイタダケなかったぜ。あいつらはあの当時もハナモチならなかったし、ウッドストックがテレビに映るたびにハナモチならないね。「アイム・ゴーイング・ホーム」?ファック・ユーだ!パンクの奴らはあの点では正しかったよ。

KS: でも、緑色の髪に鋲つき首輪をつけた若者がちらほらアメリカのショッピングモールを歩き始める頃には、あなたはすでに疑問を呈していましたね。

MF: 緑の髪と鋲つき首輪はかれこれ20年も歩いてるぜ。ああいうものは長く続くよ。

KS: 「大人にショックを与える」ものをプレイするのはだんだん難しくなってます。

MF: 俺は大人で、確かにショックはあまり感じないね。人にショックを与えるのは大変だよ、昨今。自分の裸体にチョコレートを塗りたくって出てくるカレン・フィンレイみたいなアーティストが現われた今となってはな!

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