KS: "Black To Comm" をいっしょに編集してるクリス・スティグリアノが言ってたんですけど、81年頃「シークレッツ」ってバンドがあったそうなんですが、あなたのバンドですか?
DT: 俺のバンドだ。トリオでな、ギター兼ボーカルがボブ・スラップ。「ファーマー・ジョン」って歌覚えてるか?「あなたの娘さんに恋してしまった〜」って歌詞、あれを歌ったのがボブさ。
KS: 「ザ・プレミアーズ」の歌ですよね?彼らはカリフォルニアのバンドだったと思いますけど。
DT: ええと . . . そうか、間違えた、ボブがいたのは「タイダル・ウェイブス」だ! で、もう一人がチャーリー・ベル。ロブが組んだMC5モドキのバンドでやってた男だ。あと俺。しばらくデトロイトで活動して、ちょっとは人気も出たんだぜ。シングルも1枚出した。すごくいいバンドだったんだが、当時のデトロイトの音楽シーンてのが惨澹たる状況でさ、そうこうするうちにオーストラリアに行ってニュー・レースのツアーに加わらないかってオファーが来た。で俺はシークレッツの奴らに「6週間で戻ってくるからな、そしたらまた一緒にやろうぜ」って言って出かけたんだ。で、オーストラリアから帰って来てデトロイトでの最初のギグが「アンクル・サムズ・クラブ」ってとこでさ、こっちはオーストラリアでけっこうリスペクトを受けて丁重に扱われて帰って来たとこだろ、それがこのクラブときたら、800席くらいの場所だったかな、ジョニー・サンダースがやってたよ、奴のバンドの名前は忘れたが、で、とにかく俺たちはそのクラブのオーナーやブッキング・エージェントにまるでゴミみたいに扱われたんだ。奴ら俺たちがそこのビュッフェから食い物をつまむことさえ許さなかったのさ。でその晩やめちまった。周りの物を手当たり次第投げまくって機材をブッ壊して、「クソッタレ、ウンザリだ!!」って終わりにしちまった。しなきゃよかったかもな、ってのはあのバンドはほんとにいいバンドだったんだよ、大したバンドだったんだ。いい持ち歌をそれこそ20曲も持ってたんだぜ。
KS: 「シリウス・トリクソンとモーター・シティー・バッド・ボーイズ」はどうでしたか?
DT: なんだよ、なに笑ってんだよ?!
KS: ず〜っと前クリームに載ってた彼らの記事を思い出したんですよ。あと、スティグリアーノから、車付きドラム・ライザーのエピソードを聞いてたもんで。
DT: ピンクのキャデラックの話だろ?モーター・シティー・バッド・ボーイズはいいバンドだったよ。たぶん50回くらいメンバー・チェンジしただろうが。あれはシリウスの赤ん坊みたいなもんだった。奴は自分で自分のことを「伝説のシリウス・トリクソン」って呼ぶんだぜ。あのバンドは70年代始めにはもう結成されてたんだ。
俺、アン・アーバーのセカンド・チャンスってクラブにタムロしてた時期があってさ、そこでトリクソンに会った時「よう、デニス、ちょっとニューヨークに来て2,3回俺たちとやんないか?」って話になったんだよ。「いいよ、どこでやってんだ?」、ってったら「マックス・カンサス・シティーだ」って言う。で、リハーサルしてニューヨークに行ってギグをやり、気に入ったんだ。
トリクソンのすごいところはな、デカいレコード会社と契約してるそこらのバンドなんかよりよっぽど、メディアへの売り込みがうまいってことだ。てのは、あいつは誰んとこでも出かけてって話をつけてくんだよ。バッファローみたいな心臓の持ち主さ。奴らとやり始めてせいぜい1年半くらいしか経ってなかった頃に、俺たちに関する記事のクリッピングを渡されたんだけど、5センチもあったぜ、厚みが。それもショボい記事じゃない、「ロック・シーン」とか、あのテのゴージャスな雑誌の見開きカラーとかだぜ?だから奴らとやるのはほんとに楽しかったね。レコード会社との契約はなかった、当時俺たちがやってたことは時代の先を行き過ぎてたから。で、やっと今奴の音楽が世間に認められてるわけさ!今年の夏、デトロイトに行くからモーター・シティー・バッド・ボーイズの再結成ギグをやろうってトリクソンに言われてたんだ、俺とギターのグリージー・カーリシって奴に参加して欲しいって。
KS: カーリシは今ダーク・カーニバルですよね?
DT: ああ、カーニバルなんだが、あのバンドはあんまりギグをやらないんだ、でグリージーはもっとプレイしたいから、他に3つのバンドに参加してるんだよ。ローヤル・オーク近辺のR&B系のクラブでやってるよ。奴のために募金集めのコンサートをやったよ。俺が音頭を取ったんだ。あいつ、3度も心臓発作を起こしてその時の医療費のツケが3万5千ドルもあったんだよ。で、みんなで何とかしてやろうって、州立劇場の奴らに話をつけてタダで場所を貸してもらえることになった、奴らはバーのアガリを頂くと。俺はテッド・ニュージェントのショウとかラジオ番組に出演しまくって、みんな来てくれよとかせっせと宣伝した。で、2万ドルくらい集まったんだぜ。つい2,3日前も奴と話したよ、やっと全額返済したらしい。これ以上の発作はゴメンだろうな。気の毒に、血管3本がもう使い物にならない、残りはたった1本だぜ?タバコも吸えない、酒も飲めない。多分遺伝的なものなんだと思うけどな。
とにかく、グリージーはバッド・ボーイズの一員で、トリクソンはそのギグがやりたい、と。だから俺とグリージーは参加してせいぜい暴れるよ、奴にそれでカネが入るんなら俺もやる。また募金集めはしてやれないから、今は自分のプロジェクトで手いっぱいになっちまってるから。
KS: MC5時代のレコーディングのことをうかがいたいんですが、CDで出た「アイス・ピック・スリム」にも[キック・アウト・ザ・ジャムズ録音時のアウトテイクの]「モーター・シティー・イズ・バーニング」が入ってますよね。あれはほんとにすごいパフォーマンスで、エレクトラがLPでリリースした方のバージョンよりも優れてると思うんですけど、あのテのアウトテイクは他にも存在してるんでしょうか?
DT: 1、2曲すごいバージョンが出てくるはずだぜ絶対。驚くようなのが。てのは俺、新しいインディ・レーベルを立ち上げてそのあたりをリリースしようとしてる連中を知ってんだよ。だからCDショップを注意して見てなよ、これからもっと出てくるから。録音されて残ってるMC5のライブ音源はずいぶんあるけど、ほとんどは惨澹たるシロモンだよ。ひでぇ音質のブートがいろいろ出回ってるのはほんとに気に食わないが、もっと録音状態のいいものがこれからリリースされるはずだぜ。やろうとしてる奴らをたまたま知ってるんだが、きちんとした形で完成させるはずだ。つまり、俺たちが前もって聴いた上で承認を与えるってことだ。今売られてるブートレグの大半は、残ってるMC5のメンバーや、ベッキー[・タイナー]やパティ[・スミス]の許可を全く得ずにリリースされたものなんだぜ。ほとんどは大型ラジカセなんかでボロボロの4トラックで録られたシロモノだよ、そういう音をクリアにするのはまず不可能なんだ。ただしパフォーマンス自体が悪いわけじゃない。ああいうブートが録音された当時は、あれはあれでいい時代だった、俺たちバンドとして認められようとしてやってたわけだし。
KS: まさしくその通りだと思います。長い曲の中にはコルトレーンの「メディテーションズ」のロック・バージョンみたいなのがありますよね。
DT: わかってるじゃないの。ああいう音楽はほとんどの人間にとって刺激が強過ぎるんだよ。何回も経験したけど、トレーンをやるとみんなもっとミュージカルっぽいものや、もっと詩的なもの、伝統的な旋律なんかを欲しがるんだよ。て言うのはな、普通「インプレッションズ」とか「メディテーションズ」なんかを聴くとめちゃくちゃ気味悪くなるわけよ、「こいつら、アタマがおかしい . . . 」ってな。だから言ってやるんだ、「オマエら、それでもまだ8分の6拍子数えられるだろ、4分の9拍子や4分の5拍子だってカウントできるよな、聴こえてくるだろ」って。ミュージシャンがそこから何かを学び取るってタチの音楽なんだよ。音楽の世界でトレーンのような人間は美術の分野におけるレンブラントみたいなもんだ。音楽の全景をまず示してくれたのさ。そういうミュージシャンはあまりいないぜ。
KS: 少し「バック・イン・ザ・USA 」の話をしたいと思います。エレクトラに契約を解消される直前、プロデューサーのブルース・ボトニックとロサンジェルスでレコーディングしてたんですよね?
DT: その通り。俺も知ってるある人物があの時のテープを探し出そうとしてるよ。1人じゃなく実際には2、3人の人間だな。そんなテープがほんとに残っているのか俺たち元メンバーにもわからない。最後に聞いた話だと見つけ出したってことだったが。ロサンジェルスでカットされてたんだ。「バック・イン・ザ・USA 」でリリースされたマテリアルのほとんど、いや、4分の3くらいがレコーディングされてた、ファイブ元来のやり方でな、ジョン・ランドゥー様がお出ましになって俺たちを殺菌しちまう前の音だ。
KS: 一貫して僕が一番好きなレコード、「ハイ・タイム」の話を聞かせて下さい。
DT: 俺もものすごく気に入ってるよ。あの時初めて俺たち自身でプロデュースしたんだ。アトランティックがよこしたプロデューサーは、ジェフ・ハスラムって根性が座った男だった。イギリス生まれだったからあっちにコネがあって、数曲は向こうで録音したんだぜ。あの頃俺たちはかなりの期間をヨーロッパで過ごしてた、頻繁にツアーしてたから、で、確か「シスター・アン」と他に2曲ヨーロッパで録ったと思う。ジェフもいっしょに作業はしてたんだが、ああしろこうしろとか決して言わない。俺たちがレコーディング・ルームに入ってあれこれダイアルをいじくってミックスしたり、メンバー全員が一緒に作業するのを黙って見ててくれた。で、ミックス・ダウンの段階に入ると、フレッドに任せたんだ . . . フレッドとウェインとジェフがミックスを担当した。そして最終的には、MC5のファースト・アルバムとでもなるべきだった作品が完成したわけさ、ってのはあれこそ俺たちがバンドを始めた時にプレイしてたそのままの音楽だったんだ。
おい、そう言えば1枚目 [キック・アウト・ザ・ジャムズ ] を録った時の話だが、ジャック・ホルツマン、エレクトラの社長だ、あいつら24トラック・モバイルの録音機材を担いでレコーディングに来た時さ、気に入らなかったら録り直していいって言ってたんだぜ。2、3日して聴いてみて俺たち全員1人残らず「録り直したい」って言ったんだ。だがもうリリース告知のポスターは刷っちまってたしレコーディング記念イベントの日程も決定してた、で、ホルツマンは俺たちをマルめ込みにかかったわけよ。「ライブの録り直しなんかしたら、それこそアマチュアみたいだよ」とか言いやがってさ。だから俺たちは「じゃ、スタジオで録り直すさ」って言った。だがジョン・シンクレアとホルツマンはもう決めてたんだ。「これでいい、これこそMC5だ。少しくらいボロボロの部分があってもかまわない」ってな。
2枚目の録音に入った時は気を引き締めてプレイしたよ、わかったからさ、録り直しは許されないって。[1枚目の時には] 録り直せるって言って結局なかったわけだろ、経験から学んだのさ。で、この2枚目だ。失礼、ジョン・シンクレアさんはブタ箱にお入りになりました、って新しいマネージメントの奴らが現われて、エレクトラにはコケにされ、会計士みたいな男をマネージャーに押しつけられて(短期間ダニー・フィールズが臨時マネージャーみたいなことをしてた時もあった)で、アトランティックと契約したら乗り込んで来たわけよ、ジョン・ランドゥーが、プロデューサーとして。奴はジェリー・ウェクスラーに目をかけられてた。リビングストン・テイラーのプロジェクトに関わったのが初仕事だったんだ、俺たちは奴の2番目のプロジェクトだった。で、次がジェイ・ガイルズ・バンドだったのさ。ジェイ・ガイルズと俺たちは親しかった、ボストンでいっしょにやったりしてたから。であいつらは「バック・イン・ザ・USA 」を聴いて自分らのデビュー・アルバムは他のプロデューサーで行こうって決めたんだ。後は知っての通りさ。
音楽業界の奴らは、特に当時はな、誰も俺たちと関わり合いになりたがらなかった。レコード会社は俺たちを毛嫌いしてたよ、奴らみたいな権力を批判して回ってたから。だがレコードを出すためにはそういう奴らに依存しなけりゃならない。ほんとにフザけたパラドックスだよな。「糧を差し出す手を噛む」ってわけだ . . . あいつらとはうまくやってかなきゃならない。で、結局優勢なのはあっちなんだよ。こっちの攻撃は強烈でスピーディーで激しかった、しかし俺らはビジネスをうまく営む才に欠けてたんだ。ジョン・シンクレアとホワイト・パンサーを背負ってたし。しかも基本の部分では彼の思想に賛同できなかったんだ。マリファナを合法化させ革命を起こしてお巡りをこの世から一掃するってのがシンクレアの構想だったんだぜ、わかるだろ、そんなの真剣に受け止められないよ。俺たちはただ単にローリング・ストーンズよりビッグになりたかっただけなんだ。俺たちはとにかく、とてつもなくカッコいいクールなロックンロール・バンドになりたかったんだよ。ミュージシャンに、スターになりたかったんだ。可愛い女の子と寝てゴージャスなクルマを持ってさ。政治とか哲学に対しては確かに俺たちなりの信念を抱いてた、でも他人にそれを広めるとか、あちこち出かけてってそれを教えるとか、警鐘を鳴らしたり演説台に登って「このように考え給え」なんてしゃべるとか、そういうことは全然したくなかったわけよ。それは多かれ少なかれシンクレアがしてたことなんだよ。
だからシンクレアがムショに入っちまうと何もかもぐちゃぐちゃになった。でアトランティックと契約したんだが、「ヤだね、このランドゥーって奴、気にくわねえ」って言うガッツがなかったわけよ。何しろ [ジェリー・] ウェクスラーとアーメット・アーテガンなんて大物が選んだ男なんだぜ?受け入れる以外なかったんだ。人間関係はどうだったかって言うと . . . あいつはサラブレッドだった、いやほんと、朝俺たちが目を覚ます前に奴はもう . . . 俺たちミシガン州のハンブルグってとこに一軒家を買ってみんなで住んでたんだよ、いい家で敷地が1万坪以上あったんだぜ、すごい家だった。デカいリハーサル・ルームがあって、ほんとに快適だった。
で、ジョン・ランドゥーだよ。エリートだ、な?頭の切れるリベラルな若い知識人の典型で、前はローリング・ストーンのエディターとかやってて、売れっ子ライター、R&Bの大ファンで、リズム・エンド・ブルースを愛してます、モータウンを愛してます、ロックンロールを愛してますって、な?だがアルバム・プロデュースの経験はなかった、でも音楽を愛してるってだけですばらしいんだわ、だろ?俺達が朝ゴソゴソ起きてくる前に奴はもうニューヨーク・タイムズのクロスワード・パズルを解き終わってるんだぜ、な、すげえクールだろ?でスタジオに入ると全然何にもできねぇんだよ、音痴なんだ!それであのアルバムはあんな弱々しくて薄っぺらい、殺菌されたみたいな速すぎるサウンドになっちまったんだ。基本的には奴に対する俺たちの姿勢、それと奴の経験不足、それがああいう音楽にしちまったのさ。だが20年経った今あらためて聴き直して見ると、そんなに悪くはないんだな。MC5のパワーが入ってないクールなレコードってわけだ。
KS: あそこに収録されてる「ルッキング・アット・ユー」をシングル・リリースされたバージョンと比較すると、夜と昼って感じの差がありますよね。
DT: だよな。180度違う。プロデューサーってのはそのくらいバンドに影響を及ぼすってことだよ、マジメな話。ある曲でランドゥーはマイク・デイビスに、ベースのマイク・デイビスだ、演奏させなかったんだぜ、マイクが1音残らず完璧にその曲を弾けるようになるまで。「タティ・フラッティ」なんかそれこそ36テイクも録らされたぜ、マイクが1音ハズしたとか言いやがって。てわけで、ブリリアントなジャーナリストがアメリカで一番ホットなバンドをプロデュースするその運転席にご着席になったと、で、チクショウ、なんてことしてくれたんだよ、なぁ。
だから、そういうことを「ハイ・タイム」につなげて考えると、1枚目は少しばかり、なんというか . . . 要するに、やり過ぎとやらな過ぎ、って話なんだ。つまり1枚目はちょっと反体制的過ぎた、あまりにも無法者っぽくて酒とドラッグが入り過ぎてた。で2枚目では突如として俺たち神父と尼僧になっちまったんだ。じゃなきゃカブスカウトかボーイスカウトだ。そして3枚目になると、いい感じにブレンドされたバンド本来の姿を出せたんだ。クリエイティブで、力強く、タイトなサウンドさ。
KS: あの演奏はどれもすばらしいです。曲も今聴いても新鮮です。
DT: だろ?ほとんどフレッドが書いた、すごい男だ。それにあの時期俺たちは特にタイトにソリッドにプレイしてた。だからハイ・タイムがあれほどいい出来栄えで仕上がったのは、バンドとして経験を積んだってことだと思うよ。スタジオ経験を積み、ある状況からはうまく身をかわす術を学んだんだ。バンドとして成熟していくプロセスだったのさ。3枚目を録音するまでに俺たちのファンは2つに分かれてモメてた。業界の奴らは俺たちを憎んでたし、ファンのガキどもも俺たちをどうとらえたらいいか分からずに混乱してた。だがヨーロッパの連中は歓迎してくれたからヨーロッパで過ごしたんだ。すると今度は新たな問題が発生した、つまり俺達がワイセツだとか、俺たちが象徴してるものなんかのせいで、年がら年中とてつもない嫌がらせが始まったんだ。いつでもどこへ行っても奴らに悩ませられたよ、サツだ。こっちはすっかりマイっちまって、すごい量のドラッグをやるようになった。情緒面、感情面、精神面でもっと安定していたら、MC5は今だっていっしょにやってたかもしれない。でもあの時は . . . 言葉でどう表現したらいいかわからない、ごく普通の生活をしてた5人の男が、いきなりハリケーンのド真中に放り込まれた、って感じだった。生き残れたのが不思議だぜ。
「ゴールド」ってアルバムに収録されてた「ゴールド」とか他の曲を聴いたか?
KS: 「ベイブズ・イン・アームズ」に入ってる1曲だけしか聴いてません。
DT: あれよりもうちょっとヒッピー風なやつがあるよ。ゴールドのサウンド・トラックに入ってる。アメリカであのアルバムを手に入れるのは多分無理だろうな、CD化さえされてないだろう。メンバーだった俺でさえ入手できない。1枚持ってることは持ってるんだが、今じゃレコード・プレイヤーがないし。
KS: 「ハイ・タイム」についてもう一つ質問させて下さい、ウェインとフレッドの分担について。フレッドは常に表面上はリズム・ギタリストでしたけど、あの時あなたは「ガッタ・キープ・ムーヴィング」を作曲して16分音符を弾ける彼の演奏技術を示そうとしたんだとか?
DT: 32分音符だよ。フレッドはすごくギターがうまかった、だからあの曲を作ったんだ。けど、ほら、ウェインがいたろ、ハデなことは奴がやってたから、ウェインがほとんどのソロを弾いてたからフレッドはリズム・コードに甘んじてたのさ。奴のリズムはそりゃすごかった。リズムって言ったってオリジナルなんだよ、あいつのは。でもリードだってむちゃくちゃうまかったんだ。だから俺は「フレッドのために曲を作ってあいつが32分音符をどれだけ器用に弾けるかみんなに聴かせてやろう」って決心したのさ。
KS: じゃ、あの曲であのハラハラするようなフレーズを弾いてるのは全部フレッドなんですか?
DT: 最初の部分でまず2本のギターが行ったり来たりするだろ . . . やがて全く別のギターが聞こえてくる、あれがフレッドなんだ、わかるんだ。フレッドが32分音符の独壇場に舞い降りて次のブレイクまでリードを弾く、あれを聴かせたかったんだよ、奴がどんなに優れてたかがわかるから。で、ウェインが次のブレイクを引き継いで残り同じようにリードを弾くんだ、な?
思いつくとすぐにフレッドに話した、「ようフレッド、カゲキに速い曲をやる気はねえか?お前に32分音符を弾いて欲しいんだ、お前なら完璧にやれるぜ」って。ていうのも、奴と俺はある時期すごく親密だったんだよ。で2人で作業しながら曲をまとめて、実際に演奏し始めるとウェインが、「あの曲で俺の実力を試そうったってそうはいかないぜ」って言った。それこそ俺が望むところだった、つまり2人のギタリストの対決さ。そして結果的にものすごくいいものができ上がったわけだ。
フレッドは生粋のプレイヤーだった。死ぬ前は本当に優れたギター・プレイヤーになりつつあるところだったんだ、しかもいわば精神世界に足を踏み入れようとしてた。俺とフレッドでバンドを組んだこともあったんだぜ、誰も知らないとっておきの秘話だけどな。MC5解散後6ヶ月くらいして俺はデトロイトに住んでた。フレッドとマイクと俺とでまた一緒にやり始めて、俺が住んでたレンガ造り2階建ての古い一軒家の屋根裏部屋で練習したんだ。昔のしっかりした造りの家だ。で、そこの温度ときたら50度もあったぜ、そんなとこで練習してたんだ。そこの上の階に俺が住んでたから。ロブにも「一緒にやらないか?」って誘ったけど断ってきた。ウェインにも声をかけてみたけど奴も断ってきた。
で、マイクと俺とフレッドで、ジョン・ヘフティってベースを入れて「アセンション」てバンドを結成した。ギグは2、3回やったかな。あのバンドの音源がもうすぐCDでリリースされるって話だぜ、ほんとにすばらしい音楽をやってた、いい曲だったんだよ、どれも。フレッドのギターは最高の出来だったし、俺はちょっとジャズっぽいドラムで、それからすごく優秀でソリッドなベース・プレイヤー、マイケルはボーカルを担当してた。誰1人聴いたことのない「MC3」の全く新しいサウンドが聴けるはずだぜ。
もう1回いっしょにバンドを組もうと努力したんだよ。そして3人集まって50度の猛暑の中汗だくになって練習した、またみんなでやりたかった、ただそれだけのために。その時にはドラッグからも酒からも完全に足を洗ってたんだ。再出発する用意は全員、完璧整ってた。社会復帰だ、レッツ・ゴーってな。でもロブとウェインはノって来なかった、だから実現しなかったのさ。てわけでこれが顛末だ、知ってる人間はごくわずかだよ。
KS: いまだに混乱してるんですけど、MC5が解散したのは72年の大晦日、グランディでしたよね。でも72年の3月にイギリスにツアーに行ってますよね?
DT: そうだよ。あの時MC5としてツアーに出たけど、実際には俺もロブもマイケルもいなかったんだ。フレッドとウェインがMC2で行って、ヨーロッパでその都度他のプレイヤーを使ったのさ、そして徹底的に打ちのめされて戻って来たんだ。3,4回ギグをやっただけで帰ってきちまったのさ。
KS: この前あなたは、元デッド・ボーイズのジミー・ゼロといっしょにクリーブランドでドッジ・メインのショウに出ましたよね、あの時ジミーが地元誌 [シーン] とのインタビューで、あなたたちの世代のミュージシャンをベトナム帰還兵に例えてたんです。それについてどう思いますか?
DT: 奴はどういうことを言ったのかな?
KS: 「俺たちとベトナム退役兵の共通点は多い。彼らが経験したことをおとしめたり軽んじたりするつもりはないし、俺たちの体験を無理やりあてはめようとするわけじゃない、しかし俺たちと奴らは、ある種の同じ経験をした、そのためにいわば同志になったんだ。俺たちは共にその試練を生き残り、友人の中には生き残れずに死んでいった者もいた。だから俺たちは、生き残った者が残りの人生でずっと引きずっていく、同じスピリットを持っているんだ。そういう意識を調査したり興味を持ったり信奉したりする人間たちには絶対理解できない、ある種の共通したスピリットを」、ジミーはこう語ったんです。
DT: オーケイ、わかった。うん、そうだな、ここが俺たちの戦場、俺たちのベトナムだったんだ。兄弟、従兄弟、友達が理由もわからないままに、あのキチガイじみたナムでの戦争に駆り出された。全くの狂気だった。ファイブのメンバーはアメリカに残って音楽をやった、そして今、町には復員軍人があふれてる。で、国中のガキ共が涙で目を腫らしてやって来て、「召集令状が届いたんだ、死にたくないよ、どうしたらいい?」って言う。だから人生経験から教えてやるのさ、「うまく切り抜ける方法はな . . . アタマがおかしいことを奴らに証明するんだよ」本質的にはそういうことだ。あの頃友達で死ぬ奴が大勢出てきて、そしてもし俺たちが、いや誰にしろ、自分のことをベトナム退役軍人みたいだって言うなら、それはベトナムで戦った老兵だってことだ、だが俺たちMC5はここに、このアメリカの最前線にいた、そして「いけない、この戦争は終わらせるべきだ」って主張するアメリカ人の権利を守っていたんだ。
シカゴの民主党全国大会を覚えてるだろ?あのシカゴの暴動を?リンカーン・パークで俺たち演奏したけど、本当なら他に6,7バンド出演するはずだった、なのに当日俺たち以外誰も現れなかったんだ。5曲目に入った時、たぶん「スター・シップ」だったと思うけど、後ろの方にいた武装警官や騎馬警官が襲いかかってきて群集が火炎瓶を投げ始めた。あのリンカーン・パークの衝突事件はそうやって始まったんだ。5つか6つの暴動が同時に始まって、集会の参加者は本当にひどい殴られ方をしてた、本当に死ぬほど痛めつけられてた。俺たちは「MC5」っていうバンド名を側面に描いた青いシボレーのバンに乗って来てたんだが、急いでステージを降りて全員で必死で機材を片付けて死に物狂いで逃げたんだぜ。その時点で奴らは、あの公園に3千5百人位集まってた群集に総攻撃を開始したのさ。
だから、そうだな、俺たちをある意味ベトナム帰還兵に例えることはできると思うよ。ベトナムにいたわけでも撃たれたわけでもない、だがあっちで銃弾に曝されてた兵士のために、俺たちなりの銃弾を浴びてたんだ。そうやって奴らも帰って来られたのさ。
口で言うのは簡単だよ、な、だが本物の脅威が襲って来た時、自分の信条のために頭をカチ割られる危険を犯しても、断固とした態度を示さなけりゃいけない、俺たちはそれをやったんだよ。それで、もし誰かがまたもや俺たちの頭をカチ割りたいってなら . . . ファック・ユーだ。誰かがやらなきゃならなかった、だからMC5は実際に . . . ストゥージズ、テッド・ニュージェント、ボブ・シーガー . . . あのフヌケた奴ら . . . 本物の嵐が襲って来た時も俺たちは敢然と立ってたんだ。インタビューされた時だって、ある件について意見を求められれば真実だと思うことを話してたんだ。
KS: MC5の音楽を聴くチャンスがあれば、現在でもほんとに素直にファイブの音楽を受け入れる若者はかなりの数いるはずです。
DT: ああ、チャンスがあればな、実際には古文書に埋もれてるけどな。アンタみたいな人間とか、MC5ってバンドが存在したことを世間に知らせたいと思って活動している連中とか、そういう奴らに話をする機会があれば俺はいつだって協力するぜ。こないだベッキー [・タイナー] と話したんだが、娘のエイミーがヨーロッパに行ってチャンバワンバに会ったらMC5の熱狂的ファンだったって言うぜ。だから、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン、ニルヴァーナ、パール・ジャム . . . 今耳にするロックの核みたいなもんだろ。ああいったバンドのミュージシャンがファイブをリスペクトしている、そのことを俺はすごく、ものすごく、誇りに思うよ。
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