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1998年3月に2日間にわたって行われたデニス・トンプソンのインタビューである。とても興味深い内容で、例えば「キック・アウト・ザ・ジャムズ」と並ぶMC5の代表曲「ブラック・トゥ・コム」誕生のエピソードなど、当インタビューで初めて明らかになった事実である。また、自分が資料に基づき理解するところでは、デニスはバンドの中でもかなり早い時期からシンクレアの革命構想に疑問を抱き始めたメンバーであり、そのあたりも語られている。「MC5往年のアブない部分を最も今に残す男」と、フューチャー・ナウのデイブ・トーマス監督に称され、ケン・シマモトが「ドラムを叩くように話す」と記述したデニス・トンプソンの口からは、現在と過去がとめどもなく流れ出す。
ケン・シマモト(以下KS): まず最近の活動状況から教えて下さい。

デニス・トンプソン(以下DT): 最近、最近ね、神父になろうとしてるわけよ、ずっと。なのに奴らどうしても首を縦に振らねえ。で、CDを出すんだ、「ファントム・パトリオット」ってやつ、パート・ワンだ。リリースしてくれそうなレーベルを探してるとこさ。アプローチしてる会社が2、3社あるんだが、やっぱりなるべくいい条件にしたいしそれなりの配給をしてくれるとこじゃないとな。インディーじゃむずかしいよ、その点。

KS: どんな人たちが参加してるんでしょう?

DT: とりあえず地元の奴らとやったんだ。ジョイ・ゲイドス、ロブ・タイナーが結成したMC5でいっしょにやってた奴だ。ピート・バンカート、あいつは今はダーク・カーニバルだが、それこそ15ものバンドでプレイしてきたんだぜ、スタジオまで持ってる。それからボーカルにトミー・イングラム、まだ若いんだがずっとデトロイトっぽい音楽をやってる奴だ。すごくパワフルなユニットだね。

デニツ・テックとも話してたとこだ。「キック・アウト・ザ・ジャムズ」を入れたいんだよ絶対。デニツに「キック」か、タイトル・トラックの"(We Are) The Phantom Patriots" でギターを弾いて欲しいんだ。ソロを弾くって同意してくれて、DATバージョンが完成したらモンタナに住んでる奴のとこに送ることになってる。すごく喜んでた、ほら、昔しばらくいっしょにやってたわけだろ、てわけで、デニツ・テックをファントム・パトリオットの一員として加えられるわけさ。

パトリオットのコンセプトは「変幻自在」ってことだな。アルバムごとに新しい仲間、その音楽のために時間とエネルギーを提供してくれる違うプレイヤーを集める。名前を売るとか名声や成功には興味がない奴ら。奴らにとって重要なのは完全に完璧に自由な環境でプレイすることなんだ。みんな気持ちよく契約にサインしてくれるはずだ。とにかく俺としては . . . そのくせあいつら「デニス、最初の売上から500ドル払ってもらえるかな」とか「印税入るかな」なんて心配してやがる。印税は何が何でも払うつもりだ。みんなが何らかの利益を得られるようにしたいんだ。

このプロジェクトに参加したがってる人間はそれこそ50人もいるけど、とにかく基本としてあるのは、ファントム・パトリオットってのはまさしくそのバンド名が示す通りのコンセプトだってことだ。俺たちはファントム [ 幻影 ] なんだ、見えないんだ、俺たちは亡霊、俺たちは幽霊で影でそして愛国者なんだ。国を愛し正しいことをする。バンドの他のメンバーが誰になるかなんてわからねえ、俺を除けばな。メディアにアピールするためには「Ex-MC5」っていう俺の名前を使わなくちゃならんだろう。いったんメディアの奴らの注意をひいたら、バンドのそういうコンセプトを説明して、そしたら奴らも理解するだろう、大衆のための慈善事業だってことをな(笑)。

アルバム・ボリューム・ワンじゃさっき言った奴らとプレイするわけだが、同時に他の分野のいろんな人間を集めるんだ。演奏のためにはミュージシャンを集めるが、同時にクリエイティブな活動をしてる友達をできる限り動員したいんだ。CGをやってる奴、マーケティングが専門の奴、ラジオでDJをやってる奴、それから本当にプレイしたがってるミュージシャン、その他にもたくさんいる。

KS: 音としてはどういう感じなんですか?

DT: 1枚目はストレートなロックンロールでいくつもりだ。パワフルでワイルドなロック。MC5、ストゥージズ、メタリカ、パール・ジャム、ニルヴァーナとかな、そういう感じのやつ。

パトリス(デニスのガールフレンド): このアルバムにはね、みんながびっくりするようなものを入れるの、ロブ・タイナーがハイデルベルグで話した時の録音なの。

DT: アン・アーバーのハイデルベルグって場所でな、死ぬほんの3週間前にロブが「キック・アウト・ザ・ジャムズ」を歌う前に捧げた祈りなんだよ。奴は4分間、その福音を説いたんだ。今回俺がこのファントム・パトリオットの編集作業をしてた時、ピートと他のメンバーが突然スタジオの明かりを全部消して、「おい、デニス、腰をぬかすなよ、こいつを聴いてみな、じゃいくぜ!」ってそれを流したんだ。で、俺は . . . 俺は1つの曲を作った。1つの歌が生まれて、俺はそれをロブとフレッドに捧げたんだ。少し泣きながらドラムを叩いた、4分間の曲ができたんだ。

ピート・バンカートがそんなことしようとしてるなんて全然知らなかったし、何も言ってなかった。奴がそのテープを持ってたのは、あいつは91年にハイデルベルクで、ロブのバンドでベースを弾いてたんだ、それであいつはそういうことがあったって知ってたんだ。で、とにかく、そういうことがあった2日間後に俺がスタジオに入ると、ピートは俺が作った曲とロブの福音朗読を重ねたのを聴かせた。何てったらいいかもう、「これは一体 . . . こいつは . . . ちょっと待ってくれ」って感じだったね。そりゃすばらしかったんだよ。スポークン・ワード、パフォーマンス・アートの世界なんだ。その感動的なことと言ったら . . . つまり7年前に死んじまった仲間が俺と一緒にプレイしてるんだぜ、完全に一体になって。俺もものすごくいいプレイができて . . . ビリー・コブハムやエルビン・ジョーンズやキース・ムーンだって誉めてくれたよ、ほんと。

ロブは91年に死んだ。フレッドは94年だ。2人とも46歳で*2人とも心臓で死んだんだ。だから47歳になったその日、俺は嬉しくて思わずシャンデリアからぶら下がって喜んだぜ。なんせファイブにまつわる46歳のジンクスをパスしたわけだろ?(笑)

*: これはデニスの思い違いで、フレッドが死亡したのは45歳である。

KS: ウェインとマイクは今いくつなんですかね。

DT: ウェインは来月、4月の末に50になる。マイケルは6月か7月に54だと思う。俺は1998年9月7日に50になるってわけさ。

KS: ファントム・パトリオットのコンセプトについて、もう少しうかがいたいんですが。

DT: ファントム・パトリオットのコンセプトは俺がかれこれ10年も書き続けてる本のコンセプトだよ。本質的にはMC5で体験したことの一端だな。ファントム・パトリオット、つまり「見えざる愛国者」ってのは、この国に住んでて生活を向上させようとしてる全ての人間を指すんだ。労働のレベルを向上させる、教育のレベルを向上させるとか子供たちを育てるとか、そういう実行しなくちゃならんこと全部ひっくるめて。で、それを唱えていく方法として愛国者になる、ただし幽霊みたいな愛国者だ、見えないんだ、俺たちは。そうやってゆっくりと人々の考え方を変えていきたいんだ。

基本的考え方は「見えない」ってこと。で、なるべくたくさんの人間に参加してもらって楽しくやる、と。カネのためじゃない、女のためでもロック・スターになるためでもなく、クリエイティブなアートのために、主義のために、政治的主張のために行動を起こすんだ。常に前進するすばらしい試みになると思う。1年に1枚出す。俺だけは目に触れる存在になるだろう、売るためにはMC5の名前を使わなきゃならんから。アルバムごとに創造性にあふれたジャケットをつける、昨今あまりお目にかかれないような。近頃じゃいかにもデザイン会社のパッケージング部が作りました、みたいなお手軽な奴しかないだろ。だが俺はフロント・カバーだけで3週間もかけるような、ほんとにクリエイティブで想像力にあふれたアーティストを1人知ってんだよ。昼間他の仕事をしないと食っていけなくて、でも何かクリエイティブなことをしなくちゃいられないような奴なんだ。アルバム・ジャケットはそういうアイデアでいく。

具体的には決めてないが、内ジャケで参加ミュージシャンがわかるようにしたい、それもただリストアップするんじゃなくて、CDを買った人間が自分でそれを見つけ出すような方式にしたいんだ。てのは、若い時俺はレコードを買うと、椅子に腰掛けてそれをプレイヤーにかけて、「すごい!」ってなるわけだけど、つまり、そのアルバムを作った人間に関して聴き手に情報を与えるってことは大切なんだよ。だが俺はその情報をもっと苦労して手に入れるような手法を取りたいんだ、ミステリーっぽく、巧妙な仕掛けみたいに。そういうパッケージにしたいんだよ。

KS: 「ハイ・タイム」の内ジャケみたいな。

DT: それだよ。いろんな要素を盛り込む、やり過ぎは禁物だけど、内容を持った. . .違う情景、異なる人々みたいなものを入れる。それを正しく評価してくれる人間は必ずいる。近頃はCDを買ってもせいぜい歌詞が載ってるだけのシロモノで、シケたジャケットにアホみたいな写真. . .「プレジデンツ[オブ・ジ・ユナイテッド・ステイツ・オブ・アメリカ]」のファースト・アルバムみたいな、まったくバカげた最低のジャケット、それで、プラチナ・ディスクだから呆れるぜ。

KS: テックが話してましたけど、セッションをいくつかやってるとか?その話を聞かせてもらえますか?

DT: ああ、セッションはやってるよ、だいたいデトロイト近辺の若い奴らと。形になるようなものはこれといってできないけど楽しいんだよ、あのガキどもにいろいろ教えてやるのが。いいサウンドを持ってる若い奴らとプレイするってのが、ああいうセッションをする理由だね。それと雇われて叩く時もある。「ああ、いいよ、ジイさんを雇いたいなら100ドルでノルぜ」って、クールだろ。

KS: ベン・エドモンズは例のMC5の本("No Greater Noise")の出版元を見つけられたんですかね?

DS: まだ書き終わってもいないぜ、奴は!様子を見てるんだと思うよ、2〜3年かかるんじゃないの?例のフューチャー・ナウのドキュメンタリー・フィルムでちょっとプレッシャーかかってんだよ。ベンが書き終わる前にあの映画が公開されたら、奴にしたってやる気なくすだろ。

KS: とにかく、MC5のストーリーは今だ十分に語られていませんよ。

DT: そうだな。偉大なストーリーだぜ、ほんとに!ものすごく面白いストーリーだよ、実際。なんてったって、俺たち5人が関わってるんだから(笑)。本当に問題意識を持って行動してたバンドは当時俺たちだけだった。結果がどうなるかなんて全然気にしてなかったね。嘘じゃない、俺の身体には実際それを証明する傷跡がいくつもあるぜ。

KS: デトロイトのリンカーン・パークで音楽に関わりを持つようになった経緯を話してもらえますか。

DT: ビリー・ヴァーゴって、友達でギターを弾くがいて、いくつくらいだったかなぁ、15歳くらいか?そいつがバンド・リーダーだった。ギターが3人も いて、ベースはいなかった、ドラムは俺。そいつらとプレイしてた。俺の兄貴は10歳年上でずっとプロのミュージシャンで食ってる。で兄貴が16歳だったんだから俺は6歳ってわけか、その頃兄貴たちはロックンロール・バンドを組んでて俺んちの地下室で練習してたんだ。でドラマーが席をはずすとこのチビのデニスがドラム・セットによじ登って叩き始めるってわけだ。オフクロに上の階からよく怒鳴られたよ、「デニス!どきなさい!あんたのもんじゃないでしょ!!」って。だけど必ず10分間はそうやって叩くのを許してくれたんだよ、オフクロは。だから俺は兄貴を通じてドラムに触れるようになったわけだ。12歳の頃には結婚式なんかで演奏してて、14歳じゃもう兄貴たちとクラブで演ってたね。

で、とにかく中学か高校の時、ウェインたちと友達になってバンドを組んだ。「バウンティ・ハンターズ」(注:「賞金稼ぎ」の意)ってバンド名だ。あの頃スティーブ・マックイーンのそういう映画があったのさ。奴がフレッドにギターの弾き方を教えたんだぜ、フレッド・スミスだ。フレッドはウェインの家に行っちゃあコードの弾き方を教わってたんだよ、そうやって始まったのさ。で、しばらくすると生まれつきの、持ち前の才能でフレッドはウェインより上手なリズム・ギタリストになったってわけだ。

で、俺も同じハイスクールにいて、高2か高1か忘れたけど、その頃奴らはMC5を結成した。ウェイン・クレイマー、フレッド・スミス、ロブ・タイナー、ドラムは、もう死んじまったけどボブ・ガスパー、ベースはパット・バロウズだ。半年くらいすると人気バンドになってデトロイトの中心街にあるフォード会館でデイブ・クラーク・ショウの前座をやった。で、しばらくするとアヴァン・ロックに興味が出てきたんだな、アンプをたくさん使うようになって、どんどんラウドになっていった。そうなるとドラマーのボブ・ガスパーが「ず〜っと全力で全速力で叩かなくちゃならないんだぜ、やってらんねえよ」とか文句を言い始めて、ベースのパット・バロウズもすっかり嫌気がさして「こんなイカレた音楽やりたくない」って言い出した。なんせ奴は、モータウンのジェイムス・ジャマーソンのベースを手本にしてたからな。で、2人は全然やる気がなくなっちまったんだ。

そうこうするうちに、ある日ウェインが俺んちにバイクで乗りつけて、こっちは高1かなんか、だから15か16だろ?で俺んちにやって来て「おい、仕事が一件あるんだけどやるか?ドラマーがやめちまった。クリスタル・バーってとこだ。」って言う。シケた場末のバーなんだよ、そこは、だけどもうフライヤーとか全部配っちまっててさ、バンドの名前はモーター・シティー・ファイブってなってた。「オーケイ、ノった」って、で、夜中に奴がバイクで俺を迎えに来てそこへ行ってドラムを叩いた。歯もロクにないような客が3人くらい飲んだくれてるだけなんだぜ。そこに俺たちが登場して「マイ・ジェネレーション」だのヤード・バーズだのキンクスだの演ったわけよ、それがファイブに入ったきっかけさ。

KS: その頃 "Black To Comm" はもうできてたんですか?

DT: いいや、あの曲はグランディ・ボールルーム専属になってからだ。"Black To Comm" ってどういう意味か知ってるか?

KS: いえ、ずっと疑問に思ってました。

DT: オーケイ。"Black To Comm" ってのはな、昔グランディで演ってた頃、よく他のいろんなバンドに俺たちの機材を貸してやってたんだ、で、そういう時奴らに「いいか、壊したら . . . ブッ殺す。必ずクロはコムに入れろよ」って言ってたんだ。要するに、P.A. アンプで「コム」ってのは普通「陰極」のことを指す。で、「クロ」ってのは黒いワイヤーのことだ、つまりパワー・ソースじゃない方のワイヤーが黒なんだ。だから正確に言うと、「オーケイ、オマエら、黒いワイヤーは必ず陰極端子に入れろよ」ってことなんだ。わかるか?ステージの上ってのはケーブルだらけだろう、つまずいて抜けちまうんだよ。

今みたいに音響機器の技術が発達してなかった時代だ、大変だったんだ。そして俺たちは当時地球上に存在する最高にラウドなバンドだった。俺たちと、それから多分ブルー・チアー . . . それが「一番最初の一番ラウドな」バンドだった。わざと思いっきりラウドにしたんだ、ってのは、たとえばアキナスなんてカソリックの学校にギグで行くだろう、マーシャルを4台づつ、つまりギター2本だからアンプ8台だ、それとベースのためにサンのキャビネを2台、そういう大装備で出かけてって体育館みたいなとこでさ、尼さんたちが、ほら、かぶってるあれ、あれが俺たちの爆音でそれこそフッ飛ぶのを見るのが楽しくてしょうがなかったんだよ。で、聴きに来てる奴らは気が狂ったみたいに跳んで踊って、すごい騒ぎになる。で、とにかくその「クロをコムに」ってのを曲名にしたんだ。フレッドが作ったリフに、例のフレッドのギターで始まるリフ、["Black To Comm" イントロの2コードを歌う]あれにその名前をつけたのさ。あの曲はいったん始めたらどういう風に展開して行くか誰にもわからないフリー・フォームの実験場だった。その最初の部分にロブが短い歌詞をつけたらものすごくエキサイティングな曲になった、そしてそれが原因でバロウズとガスパーはやめちまったのさ。「アヴァン・ロック」って俺たち呼んでたんだが、どんどんそれにのめり込んでったから。ヤードバーズは「レイブ・アップ」って言ってた、あのバンドもそれをやり始めてどんどんクレイジーになってったんだよ。

KS: あなたの演奏スタイルですけど、よくエルヴィン・ジョーンズの名を口にしますよね。確かにアライブから出た「アイス・ピック・スリム」を聴くと、それがよくわかります。すごいエルヴィン・ジョーンズ風でしたね。

DT: あれこそエルヴィンのグルーヴさ。

KS: それからサンダー・イクスプレスには「ラマ・ラマ・ファ・ファ・ファ」が入ってますが、あれは例のマンハッタンのクラブ、「ファンハウス」でDJのJBがかけるような感じで、すごいファンクが入ってますよね。どういうドラマーに影響を受けたんですか?

DT: オーケイ、俺が特に影響を受けたのは、順番は関係なく、キース・ムーン、ジミ・ヘンドリックス・イクスペリエンスのミッチ・ミッチェル、それからジョン・ボーナムだ。

KS: ボーナム?ほんとですか?

DT: そう、奴にはすごく厚みのある、イキのいいグルーヴがあった。それとあのデカいドラム・セット。ツェッペリンとは8、9回いっしょにやったが、そういう時に奴をしっかり観察したんだ。「こいつ、すげえチョップを持ってる」って思ったね。例のバス・ドラムの3連符、あんなとてつもないことを、しかもすごいパワーでやり始めたのは奴だ。だから俺はボーナムからいくつかテクを盗んだよ。それからストーンズのチャーリー・ワッツも好きだった。それと、あのメンフィス・ソウルのスタックス・ボルト・レーベル、あそこのドラムもよかった。あそこのセッション・ドラマーが誰だったのか名前は知らないが、とにかくあのドラムは好きだったよ。

KS:  アル・ジャクソンか誰かだと思いますけど。

DT: ウィルソン・ピケットとかあのあたり、モータウンのドラマーはものすごく好きだったね。奴らはドラマーを養成してたんだよ。それとキング・クリムゾンのビリー・ブラッフォード。いろんなドラマーに影響を受けたことを考えてみて . . . 今、俺は俺ってわけだ。近頃さかんに使われてるあのエレクトリック・ドラムってやつ、あれをやろうとは思わないね。そう、それにヤード・バーズのドラマー、それからキンクスだ。ほんとにすばらしい昔のイギリスのバンド、アニマルズ、ホリーズ . . .

KS: プリティー・シングスなんかどうでしょう?

DT: 当然。ヴィヴ・プリンス . . . バーズもだ。ラビング・スプーンフルのジョー・バトラーだって。16歳の時奴を見たんだよ、デトロイトの州立博覧会場ってとこで。すごい迫力だった。それまで知らないバンドだったから「うわぁ、ラビング・スプーンフルか、ジョー・バトラーってすげえ!あのグリップとビート!」って感動したね。

でな、当時俺たち若いドラマーがどうしてそんなに強く叩かなくちゃならなかったかって言うと、俺たちにはマイクをつけなかったのよ、あの頃。だからマーシャルだろうがサンとかヴォックスだろうが、ギターとベースのあの爆音の中でドラムが聞こえるようにするためには、とにかく必死で強く叩く以外なかったわけよ。あの時代はテクノロジーがあまり発達してなかったから、自分らのP.A.システムがあって16チャンネルのボードでも持ってない限り、俺たち持ってなかったわけで、ドラムにまでマイクをつけることができなかった、だから本当にパワフルな自分なりのスタイルを作り上げなくちゃならなかった。そのうちドラマーにもマイクがつけられるようになって、そうなって始めて、エルヴィン・ジョーンズの演奏スタイルなんかも追求できるようになったわけで、つまりもうちょっとリストをキカしたような奏法だ。

エルヴィン・ジョーンズ、ラシード・アリ、ビリー・コブハムなんかを研究したよ。すごいクールなドラマーのリストだろ。他にもバディー・リッチやジーン・クルーパとか。バディーを忘れちゃいけないよな、リストがドラミングの全てだった時代だ。でその後何が起こったかっていうと、多分ロックン・ロールのせいだと思うが、リストはすっかりすたれてアームの時代になった。そして今は、今は何でも自分の好きなようにできる、リストだろうがアームだろうが。

俺の新しいCDに入れる 「グルー」って曲の話をしたよな、MC5の3枚目[ハイ・タイム]に入ってる「スカンク」みたいなドラム・ソングだ。でも全く新しいアプローチとスタイルを持ってる。よくあるセコいインストじゃなく、エルヴィン・ジョーンズみたいな . . . エルヴィンの影響を強く感じると思う、確かにそれが入ってるんだ。

KS: ラス・ギブとグランディ・ボールルームの話を少ししてくれますか。

DT: ラスはディアボーン・スクールってとこで、確か国語と歴史を教えてた、で、アルバイトでDJもやってたんだ。ウェイン州立大学に「アーティスト・ワークショップ」ってサークルがあって(俺はあの大学に2年間通って物理と機械工学を勉強したんだぜ)、その本部が俺たちが住んでた場所の下の階にあった。俺たち歯医者のオフィスに住んでたんだ、つまり昔歯医者のオフィスだったとこに。週末になると奴らは詩の朗読会とかジャズ・バンドの演奏なんかをやってた。ウェインとロブはそういうものを通じてシンクレアを知るようになった。MC5が初めてアーティスト・ワークショップのセッションに加わったのは土曜か日曜で、ジャズ・バンドが3、4グループ演奏して、詩の朗読があって、で俺たちが登場したわけだ。みんなの頭がブッ飛ぶような演奏をしたもんだから、当時ジョンの女房だったレニが出て来て、「アンタたち、ウルさ過ぎるのよっ!!」って、電源プラグを引っこ抜いちまった。

とにかく、その晩そこにラス・ギブが現われた。ロブかジョンか、そこらはよく覚えてないんだが、ラスはそれまでに既に連絡を取ってて、西海岸のフィルモアみたいなコンサート・ホールをオープンしたい、デトロイトにも似たようなシーンを支えるマーケットがある、って話をしていた。奴はグランディの所有者じゃなかったが、建物を持ってる [ゲイブ・グランツという]年寄りから借りたんだ。ラスは俺たちに「君たち、ハウス・バンドになる気はないか?とりあえずノー・ギャラだけど」って言った。俺たちにはプレイする場所が必要だった、広い場所が、それにリハーサルする場所も . . . だからラスに、「いいよ、願ってもないことさ」って返事した。アヴァロン、ストレイト・シアター、フィルモアで起こってることのニュースは聞いてたし。

とにかく、そういう風に始まったんだ。たぶん6〜8ヶ月は1セントももらわずに働いたな。でもハウス・バンドだっていうだけで満足だった。グランディで演奏し始めた最初の頃は午後リハーサルする時なんかコートを着込んでやってたよ、ヒーターはなかったし、タダで練習させてもらってたわけだし。俺たちはカリフォルニアで起こってることのスピリットをまさしく体現していた。つまり、バンドを組んで、無料でプレイし、支持者を得る、っていう発想だ。

だからラスは当時のデトロイト・シーンの仕掛け人だよ、中心はグランディ・ボールルームだったから。あの頃のデトロイトには他にもギグを行う場所がゴマンとあった。小さなクラブ、ダンス・パーティー、ハイスクールのイベント、スケート場、バンド・コンテストとか、カレッジや大学でのコンサートはもちろん。バンドだけで食ってけるだけのカネを稼げるシーンがあったから、グランディでは演奏させてもらえるってだけで嬉しかった。最初のうちは全国レベルのバンドってのは来なくて、ローカルなバンドしか出てなかったけど、その顔ぶれと言ったら、ボブ・シーガー、ラショナルズ、テッド・ニュージェント、アンボイ・デュークス、MC5、サイケデリック・ストゥージズ、サード・パワー、サヴェジ・グレイスだぜ、そしてそれぞれのバンドにファン・ベースがついてた。

で、どういう風に発展したかっていうと、そういうファン・ベースが合流して一つの大きな集団を形成し、すごい動員数が得られるようになったんだ。それでラスは全国規模のバンドを呼べるようになった、そしてそういう有名バンドが来るようになると、グランディは本物のホット・スポットになったのさ。だからラスの功績ってのは絶大だよ。最終的には収支が見合うようになって俺たちもギャラがもらえるようになった。彼は確か今でも学校で教えてるはずだぜ。

KS: ほんとですか?オドロキだなあ!

DT: だよな。年取ったってだけでさ。ラスは決してクレイジーな人間じゃなかった。俺たちみたいに暴走型じゃなくて、せいぜいちょっとマリファナを吸うくらい、それもLSDとかそういうものは全然やってなかった。

KS: MC5に関して、最良と最悪の思い出を教えて下さい。

DT: 最良?なんだろうな、[1967年にデトロイトで行われた]ベル・アイル・ラブ・インかなあ . . . ほんとにいいショウだった。完璧なパフォーマンスができたんだ。最悪と言ったら、バンドが解散したことだろう。1972年だ、グランディ・ボールルームでな。

KS: ロブとフレッドの印象を話してもらえますか?どういう人柄だったかとかそのあたりを。

DT: う〜ん、難しいなぁ。ロブはいろんな意味で、MC5という生き物の知能だったね。哲人、何て呼んだらいいか、内的世界を探究する芸術家 . . . (長い沈黙)詩人ロブ、哲学者ロブ、考える人ロブ・タイナーだった。

フレッド・スミスはリズム・ギタリストさ。バンドの音楽的創造性を支えた者、メンバーの中で一番、音楽によって行動していた奴。リズム・ギタリストで、奴ときたら . . . ストーンズのブライアン・ジョーンズみたいにさ、とてつもなくクールなギター・フレーズを出してくるんだよ。ウェインは多かれ少なかれ、仕上げのデコレーションみたいなもんだった。ウェインはショウ・マンで、一番前に置いて、踊らせてスイングさせてくねらせて回らせて、そういう存在だ。言ってることわかるか?ピーター・タウゼントだよ、つまり。ウェインの方がピートよりうまかったけどな、奴はなんてったって踊れたから。

で、マイク・デイビスだ。奴はいろんな意味でバンドのボトムを支えてた、ベース・プレイヤーなんだから。奴の役目はとにかくベースを弾くことだったが、俺たちがステージでいろいろクレイジーな行動を取るようになってからは、振り付けを担当した、ああいうもんは練習しなくちゃならなかったから。

な、クールだろう、俺たち?(笑)--- 機材のブッ壊し方をリハーサルしてたわけだよ。ジョン・シンクレアがよくコボしてたぜ、バンドの経済を操作してたから、俺たちの収入をさ。俺たち稼ぐそばからブッ壊してたんだ、それが一番文句を言われた点だった、「あのキチガイじみた自己破壊はもう止めろ」って。で、こっちは「ジョン、客の反応を見ろよ」って言い返したもんだ。俺たちは創造的破壊行為をしてたのさ。な、ピート・タウンゼントは自分のギターを叩き付けてアンプの向こう側に放り投げてた。だが俺たちは、ステージ全体そっくりブチ壊してたんだ。1967年だぜ(笑)。すげぇクールだろ。

で、フレッドの葬式の2日前にパティ・スミスが電話して来て、納棺の時の賛辞朗読をやって欲しいって言う。電話が鳴った時俺は、俺はちょうど居間でソファに座ってた。ソファ・テーブルの上には紙が積んであって、手にはペンを持ってた、フレッドについて何か書こうとしてたんだ、奴が死んだって聞いて . . . 目の前にはジャック・ダニエルの瓶、で、真っ白な紙を前にして俺は途方に暮れてた、何にも思い浮かばないんだよ、フレッド・スミスって人間について何を書いたらいいのか、何も出て来ないんだ、奴はものすごく複雑な男だったし。で、突然その女房が電話して来て「デニス、フレッドへの賛辞を書いて欲しいの」って言う。俺はジャック・ダニエルの瓶から長い一口を飲んで、おもむろに書き出した。「セロファンの花と分岐点」ってのを書いた。インターネットにも出てる。俺が書いたフレッドへの賛辞だ。(それにちなんでロサンジェルスには「セロファン・フラワーズ」ってバンドがあるよ。)あの賛辞は突然浮かんだんだ。パティから電話をもらって、突然ペンが走り始めた。幼馴染みで死んじまった友達についていい文章が書けたんだ。フレッドが生きてればって、毎日のように思うよ、本当だ。

KS: ストゥージズについてちょっと話してもらえますか。あのバンドのメンバーとは、ずいぶんいろんな事で関わりがあったみたいですね。

DT: 往ったり来たりがあったよ、特にロン [・アッシュトン] とは。71年から74、5年まで3年くらいカリフォルニアでいっしょにやってた。ニュー・オーダーってバンドだ。ロンがギター、俺、ジミー・レッカって、ストゥージズの終わり頃に入った奴がベース、デトロイト出身のギターがもう1人、レイ・ガンて男、それからデビッド・ギルバートって、こいつは後になってロケッツのボーカルになった。

ロンとは今でも時々いっしょにやるんだよ。あいつはやたらと忙しい奴でさ、いろんなことやってるんだな、ストゥージズは今でもすごい存在感があるからな。奴らが最初出て来た時は弟子みたいに思ってたよ。でもメンバーとは友達だった。マイク・デイビスはスティーブ・ハーナデックって、俺たち「ホーク」(「鷹」)って呼んでたけど、奴らのマネージャーと親しかった。アン・アーバーにあったファン・ハウスによく遊びに行ったよ。あいつらその頃演奏の仕方を練習してたんだ。スコット・アッシュトンはドラムを叩き始めた頃、オイルを入れる50ガロンのドラム缶を2個並べて叩いてたんだぜ、まったく、考えたもんだよな、ハハハ。

KS: あれ、ほんとの話なんですか!

DT: そうさ。奴らはほんとの意味で最初のパフォーマンス・アート・バンドだったね。演奏技術がまだ未熟だったから、シンプルなものをやってた、すごくシンプルなリフやリズムをな。だから客の前でギグをやり始めた当初、イギーは過剰なリアクション、過剰な反応、過剰な演出をする必要があったんだ。あの独特のスタイルはだからこそ生まれたのかもしれないな。奴らはいつも一緒にプレイしてた、で、どんどん上達してったんだ。俺たちはいつもストゥージズのことをブラザー・バンドって言ってた。で、エレクトラと契約した時、ダニー・フィールズやって来た。奴はA&R部の部長だったんだ。社長はジャック・ホルツマンだった。俺たちとの契約をまとめにダニーがやって来たんだが、奴はその時ストゥージズを聴いてすっかりマイっちまった。だからエレクトラは実際には1つのバンド分の予算で2つのバンドをサインさせたのさ、MC5とストゥージズ両方とも契約したんだから。うまくやったよな。

で、その後どうなったかって言うと、サインした翌日から俺たちは別の道を歩み出したのさ。MC5にはMC5の運命が待っていた、ストゥージズにはストゥージズの。あいつらもあいつらなりの試練と苦難を味わったんだ。デイブ・アレクサンダーは死んじまった、ベース・プレイヤーだ、ロンはずっと留まった。だから俺はロンやスコット [・アッシュトン] とはほんとにいい友達だよ。イギー?友達だけど特に仲がいいってほどじゃない。でもMC5のメンバー、特にウェインだが、あとフレッド、あいつらはストゥージズのことはあんまり本気で取り合ってなかったね。ロブはあのバンドがものすごくマンガチックで面白いと思ってた。ストゥージズはこの先絶対成功する、って言ってた。で、まさしくその通りになったってわけさ。

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