クレイマー・レポート#8を掲載する。極力分かりやすく訳したつもりだけれど、難易度の高い現代国語のテストのようで、ウェインの主旨が今一つ伝わってこないのは自分の読解力不足かもしれない。それにしても、ウェイン・クレイマーのようなキャリアのロック・ミュージシャンが音楽ビジネスに関して抱いているこのような見解を、直接本人の筆によって知ることができるというのは本当に面白い。
クレイマー・レポート No. 8 (2002年11月)

未来を見た。過去にちょっと似ていた。

興味深い現象が起こりつつある。1930年代、40年代の大編成のバンドに端を発するもので、あるバンドが一世を風靡した後人気が落ち、バンドとしての生命を終えてだいぶ年月が経過してから、再び脚光を浴びてビジネスとして成り立つという現象だ。

名前は伏せるが、親しい友人で折に触れて仕事上のジレンマで悩んでいる奴がいる。極めて優秀なプロのベーシストで、主として70代後半から80年代にかけて非常に人気があったあるビッグ・バンドのメンバーとしてポップ・カルチャーに大きく貢献した人物だ。彼のグループが影響力のある重要なバンドだったかと言えば異論もあるだろう、しかし彼等は何曲かすばらしい歌を書き、録音した。むろん解散して久しいから、その友人は家族を養うためにここ数年は、60年代に人気のあったあるグループの復刻バージョンのバンド・メンバーとして年間100日以上ステージに立っている。で、奴の苦悩というのは、そのバンドが現実のバンドだとは思えない、なにかマガイモノの仕事だというんだ。この考え方は馬鹿げていると俺は思う。理由を教えよう。単純だが複雑でもある理由だ。

とにかく何をおいてもまず、人間は食っていかなきゃならない。住む場所も重要だ。家族を養い子供を学校へやる。医者に治療費を払い、服だって買わなきゃいかん、それが現実だ。こういうこと全部が現実問題として必要なんだ。人生の土台を築くブロックみたいなもので、誰も異論を差し挟む余地のない問題だ。だが、ちょっと視点を変えて、違った角度からこの現実を眺めてみるとしよう。

ミュージシャンの生活ってのは、実は一般の人たちが想像しているようなものじゃない。多分大多数の人は、ミュージシャンてのは大金を儲けて美女をはべらせながらエキゾチックな異国をツアーで渡り歩いてる、くらいに考えているんだろう。で、最終的にはバチが当たって、ツブれ燃え尽きて残ったのは音楽だけ、ってことになるんだと。少なくとも、MTVやVHー1チャンネルや、その他のロック・メディアが煽ってるのはそういうイメージだ。

だが多くの場合現実はもっとジミなものだ。統計的に言って、ミュージシャンでリッチになれる可能性ってのは、NBAかNFLかプロの野球選手としてリッチになれる確率とほぼ等しい。約10万分の1だ。実に、極めて低い確率だ。しかし、バカみたいに必死で練習し、働き、本当に物凄くラッキーだったら、1、2年間、ヒットを飛ばすバンドにいられる、あるいはヒット曲を1曲書く場合があるかもしれない。ひとときは一世を風靡することだろう、しかしそれも長くは続かないのが現実だ。そして自分のスキルだけを頼りに、自分自信と自分が愛する人間を養うだけのカネを稼ぐ方法を考えなければならない時がきっとやって来る。

その結果、生きるために音楽以外の道を選ぶ者を非難するつもりは毛頭ない。若い男性あるいは女性ミュージシャンが、不動産を売ったり分譲住宅を建てたり、教師をやる方が懸命だと考えたとしたら、俺は「幸運を祈る」と言おう。勘違いしちゃいけない。音楽ビジネスってヤツは、うんざりするほどイヤな仕事なんだ。ミュージシャンがアーティストでいられてカネを得られるようにはできていないビジネスなんだ。ミュージシャンにカネが回ってくるのは一番最後、つまり、レーベル、音楽出版社、マネージャー、弁護士、会計士、ブッキング・エージェント、旅行代理店、ホテル、レンタカー会社、機材レンタル会社、ローディー、ケイタリング会社 (ドラッグ・ディーラー、バーテン、離婚した女房は言うに及ばず)への支払いが全部済んだ後初めて、ミュージシャンにカネが払われるのさ。で、さっきの友人の悩みの話に戻るが、彼は自分の状況を哲学的に、そして恐らくは正しく、認識している。そしてやりたいことをやるに十分なだけの収入を得ている。なのに何が面白くないんだ?

ひとつには、ミュージシャンには人間的成熟ってヤツを拒絶しているようなところがある。ミュージシャンは子供みたいに振る舞うだけでなく、子供じみた世界観を持っていることが多い。彼等にとって変化を受け入れることはとてつもない勇気を要する苦行なんだ。それは今までの考え方を放棄しなければならないことを意味するから。カール・ユンク博士が書いていたが、人間てヤツは、正しいとわかっていても従来と違うことをやるくらいなら、たとえ間違っていても、これまで常にやってきたことを続ける習性があるという。現実社会に適応するには、多くのミュージシャンに欠けている人間的成熟というものが必要なんだ。少なくとも俺の経験によればそうだ。

19や29歳の時に触発されたのと同じことで、39や50歳になっても感動するわけはないだろう。俺がプロのミュージシャンとして知っていて一緒に働いている連中の大半は、仕事の面でもっとずっと広い視野を持っているし、そこでの自分の機能もわきまえている。そうあるべきなんだ。さもないとこの世界では生き残れない。親友のジョン・シンクレアも言うように、常に柔軟に、そしてユーモアのセンスを忘れるな、ってことだ。

ここで思い出すのが、ティーンエジャーの頃デトロイトの音楽家組合の組合会館でよく聞いた類いの話だ。地下に組合員用の小さなバーがあり、そこに午後中タムロして他愛もない話をたくさん頭にタタキ込まれた。組合に用事があって会館を訪れると、最終的にはそのバーで年配のミュージシャン達とクダを巻いて終わるのが常だった。いっしょに働いたことがある数多くのバンド・リーダーのことを1日中でも話し続けられるような連中だ。在籍したありとあらゆるバンドの話。あのギグ、そのギグの話、あのボス、あのクラブ・オーナーの話、それを彼等は限り無く話し続けた。で、それを聞いて俺が何を感じたかというと、俺はそういう多くのバンドを渡り歩く話には全く同化できなかったんだ。俺は違う世代に属していた。俺にとってバンドとはライフ・スタイルであり、社会性を帯びたグループであり、一つの部族でありギャングだった。バンドとは俺たちを象徴するものだった。俺が生まれたのは、いったんバンドを結成したら、一生共に生きていく、という考え方の時代と場所だった。個人は全員のために、全員が個人のために、という考え方だ。それはビートルズ、ストーンズ、キンクス、ザ・フー、グレイトフル・デッド、ジェファーソン・エアプレインといったバンドを知ってさらに強まった。当時のバンドは皆、そういうスピリットでやっていたんだ。

映画「ヘルプ!」の中で、ビートルズがキツかった1日を終えて帰宅するシーンがある。同じ路地からそれぞれ自分の玄関のドアから入るんだが、家の中では共用の大きなリビング・ルームにつながっているんだ。共同生活してるみたいに。ビートルズって、そんなにいつもいっしょなのか -- それがとても印象的だった。もっともそれは映画の中だけの作りごとで、真実ではなかったわけだが。

さて、あれから30年が経過し、ある現象が起きつつある。一体どう解釈したらいいのかと思う。

つまり最近、数十年前に人気があったバンドが復活し、再び以前のように規則的にツアーを行い、チケットの売れ行きもよく、それで生活を成り立たせているんだ。かつてハードなツアーを際限もなく行なっていたようなバンドだ。数年を費やして世界中をツアーで巡るという、昔ながらの方法でファンを増やしていったバンドだ。しかし復活したと言ってもオリジナル・ラインアップじゃない -- わかるかな、オリジナル・メンバーなんかどうでもいいんだ!

世の中には一握りのバンド・マネージメントの達人がいて、ファンタジーの中だけに存在するようなバンド幻想に合わせてミュージシャンを作り上げ、バンドを存続させる。そういう人間には、バンドは一心同体という考え方は邪魔だろう。だが俺にはそうじゃない。つまり、ミュージシャンを一つの型にはめて人前に晒すのはフェアじゃないと思うんだ。「自分に忠実なれ」っていう格言を思い出していいんじゃないか?

いったんこのリバイバル現象に気付くと、ありとあらゆる所でそれが目に付くようになった。ドアーズがライブ活動を再開している。むろんボーカルは違う人間を新たに雇っているが、全くすごいことになったものだ。そのボーカルはジム・モリソンに似てなくもなく、サウンドもかつての音に近く、だから俺たちがドアーズの音楽として記憶しているものに非常に近いサウンドで、かつてのヒット曲の数々を聴くことになるだろう。(ドアーズを忘れるはずはないんだが。)クラシック・ロックを流すラジオ曲は現在、ドアーズが活動していた時にも増して彼等の曲をかけている。真実を言えば、若者でも年配でも今のドアーズ・ファンにはメンバーなんかどうでもいいんだ。彼等にとって、バンドというのはすべからく昔と全く変わらぬ姿で今現在も存在しているんだ。ドアーズのオリジナル・ドラマー、ジョン・デンスモアがカネには困っていないことを理由に再結成に加わるのを断ったというのを俺は評価するけれど、やはり優れたドラマーであるスチュアート・コープランドはギグをやりたかった、だから再結成ポリスに加わった。奴だってカネには困っていない、なのになぜそうしたのか?ドラムが叩きたかったからさ。

ドアーズ再結成に関して言えば、要するにレイ・マンザレクとロビー・クリーガーが、またバンドを -- 自分たちのバンドを -- やりたくなった、自分たちがやってるはずのことをまたやりたくなった、ということだと思う。若い頃、あることのやり方を練習しながら青春を費やしたとする、で、できることならその時代に戻ってもう一度それをやりたいと思う。ごくあたりまえのことさ。ダンサーは踊り、小説家は書き、絵描きは描き、彫刻家は彫り、役者は演技し、ミュージシャンは音楽を奏でる、と。

そういう風に再結成されて客を集めているバンドを思い付くままにリストアップしてみた。カッコ内は現在のバンドにいるオリジナル・メンバーの人数だ。

ザ・フー(2)
ストーンズ(3)
ジャーニー(2)
プリテンダーズ(2)
バッド・リリジョン(3)
ローズ・オブ・ザ・ニュー・チャーチ(2)
レーナード・スキナード(難しくてわからない)
ダムド(2)
ザ・カルト(2)
ザ・ナック(3)
メタリカ(3)
REOスピード・ワゴン(?)
シカゴ(どうでもいいだろ?)
イーグルス(同上)
ジェファーソン・エアプレーン/スターシップ(どっちのバンドか/どの時期のバンドか、によって違ってくる)

ちょっと考えただけでこれだけ出てくるんだから、実際のリストはもっとずっと長いものになるだろう。

リンゴ・スターはこの考え方を毎年恒例の「オール・スター・ツアー」で実践し、どこでも超満員の客を集めている。客は皆リンゴとその友達のバンドを聴きに集まり、楽しいひとときを過ごすわけだ。こういうのはR&Bの世界では伝統的に行われていることで、オリジナル・メンバーは一人か二人しか残っていないが依然バンドとして立派に活躍し、ボーカルが交代する場合などでも時として2代目、3代目の方がオリジナルより優れていたりする。

先週ある楽器店で偶然友達に会った。(機材を売りに行ったんだ。カネが必要でね。)で、そいつはその前の晩ザ・フーを見に行ったんだが、タウンゼントはすばらしかった、会場は興奮のルツボだった、と言う。

物凄いギターだったぜ、と。まるでエントウィッスルがいなくなったことで自分をアピールする機会が増えたみたいに、何かを証明したいみたいに弾いていた、と奴は言った。

さらに、エントウィッスルの後を受けたピノ・パラディーノも悪くはなかったそうだ。ザ・フーは、リーダーであるピート・タウンゼントの活動の一端だ。ピートは常に仕事を欲し活動している。従来の概念に疑問を投げかけるようなプロジェクトとアイデアによって、自分自身と他人に挑戦し続けている。そういうプロジェクトは成功する時もあるし、失敗する場合もあるが、少なくとも彼は何か価値があるものを生み出そうと常に努力している。昔と全く変わらず今も精力的に活動している。彼の努力は、音楽活動は必ずしも若さには左右されないということを証明してくれている。ジャズやブルース、その他全てのエスニック/ワールド・ミュージックの世界を考えてみるといい。一つの特殊技能あるいは職業として、一生かけて最後の1小節に至るまで、上達を目指し切磋琢磨していくという類いのものだ。

しかし実のところ、これはなにも今に始まったことじゃない。カウント・ベイシー・オーケストラ、デューク・エリントン・オーケストラ、レスター・ラーニン・オーケストラといった大編成のバンドは、昔からずっとこれをやっているんだ。この地球上をツアーして回るミュージシャンのバンドが登場した時からずっと行われてきたことだ。バンドが修行の場となり、次世代のプレイヤー達がそこで腕を磨く。もちろんその多くがそこから生活費を稼がねばならない。こういうのは本物のバンドではないという考え方がどこから生まれたのか、俺にはよくわからないけれど、とにかくこういうバンド形態がその役目を終えたことは確かだ。

このことを現在人気があるバンドに関連づけて考えると、これら全てがさらに別の意味を帯びてくる。つまりこういうことだ。俺の知ってる人間で、コーン、マリリン・マンソン、リンキン・パーク、あるいはディスターブドやP.O.D.のメンバーの個人名を知っていたり、気にかけているヤツはいない。つまりこういうバンドは、いったんオーディエンスを喜ばせるやり方さえつかんでしまえば、永久に人気が続くフランチャイズを手に入れたってことだ。

問題は、今日メインストリームでヒットを飛ばすバンドは、テレビからヒットを生み出してるってことだ。同時に数億円にものぼるプロモーション費用がラジオや経営コンサルタントのフトコロに消えていく。ヒットはカネで買われ、バンドがファンを獲得する前にもうヒットになっている。人気グループの賞味期限はとてつもなく短く、ツアーで鍛えられたりファンを獲得したりする機会もない。というのもロードに出る以前に、もうファンは確保されているからだ。カネを払い、払われて集めたファン。そして彼等は次のスターが現れるとあっという間にそっちに乗り換える。いっときホットだったバンドも、次の瞬間には昔の話題だ。

というわけで現状は、かつて短期間あるバンドのファンで、大掛かりなコンサートのアトラクションをいまだに求めている人間は、オリジナル・メンバーが残っていてもいなくても、昔好きだったバンドを見るためには喜んでチケットを買っているということだ。そしてニルヴァーナ以前のロックの歴史は何も知らない若いファンにとって、現在存在しているバンドは全て決してなくならないということだ。今の時代の音楽ファンは、過去のことは全く知らずに現在に封じ込められている。これまでに録音された全てのレコードに、彼等はインターネットで簡単にアクセスできるのだから。

彼等にとっては何も変わらない。そして、真実を言えば、それで全然かまわないのさ。

ウェイン
2002年11月