クレイマー・レポート No. 25(2005年3月22日)
時々、自分は今人生最高の瞬間にいると感じることがある。ある特別の瞬間が鮮明な実体を伴って訪れることがある。混乱や曖昧さは微塵もない瞬間。この世の 悩み事や紛争は彼方に消え去り、その瞬間が自分の知覚にぴったり寄り添う。今のこの時こそが至福の瞬間だと、はっきりわかる時がある。
先月、ロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールで俺が味わったのはそういう瞬間だった。
サン・ラーの社会/精神/教育/政治哲学は、ほぼ40年にわたって俺の思考の核であり続けている。それを知ったのは60年代末、友人のジョン・シンクレア を通じてだった。その頃俺はデトロイト北西部でオフクロと暮らしていた家を出て、ウェイン州立大学のそば、キャス・コリドアという場所にあるアパートに 引っ越してきていた。まもなくシンクレアは俺の友達となり、やがて導師となった。彼は年上で大学教育を受けていたし、彼の世界観は俺を魅了した。それまで 自分ではうまく説明できなかった事柄が、シンクレア流の物の見方によってつじつまが合うようになったんだ。神、ブルース、その中間にあるもの −−俺たちはありとあらゆることについて論じ合った。とりわけ彼は音楽とミュージシャン、そして彼らの音楽人生が見舞われるトラブルについて熟知してい た。そういうこと全てに関して、俺はほとんど取り付かれたように夢中になって話を聞いた。
俺たちは音楽が人々にとってどういう意味を持つのか、それが俺たちの人生でどういう役割を果たすのかを話し合った。俺たちが惹かれる音楽が、いかに俺たち の生活にインスピレーションを与え、同時に生活を反映するかを論じ合った。ミュージシャンと聴き手の関係は何なのか、単に表面的なレベルを超えてどういう 関係が成立し得るのか、俺は質問した。俺たちは際限もなく論じ合い、彼はその後の俺の人生を変える音楽へと導いてくれた。そういう音楽の一つがサン・ラー だった。
ESPディスク・レーベルからリリースされたサン・ラーの "The Heliocentric Worlds of Sun Ra" は、俺にとって全く新しい世界への扉を開いたレコードだった。今、俺の音楽を聴いて人生が変わったと言ってくれる人間が時々いるが、不思議な感じだ。それ は信じ難いことだとして、まさしく同じことが当時の俺に起こったわけだ。繰り返しだな。
いつも「次のレベル」を求めていた俺にとって、サン・ラーこそが捜していたものだった。俺って人間は、鉄道コレクションとか料理番組とか何であれ、今現在 やっていることにはほんのしばらくの間しか関心が持てないタチなんだ。最近は一つの場所に腰を落ち着け、その時々の時間を楽しむってことが少しは出来るようになってきたが、それでも前に進みたい、進歩したいって衝動は相変わらずだ。
サン・ラーは当時、そして今もなお、俺より遥か前を歩いている。彼は常に俺にとってもう一人の導師だ。同時代の先鋭的ミュージシャンたちでさえ、ラーに比 べれば遅れていた。決して彼らが怠け者だったってわけじゃないんだが。モンク、ミンガス、コルトレーンの最盛期に、天才サキソフォン・プレイヤー、ジョン・ギ ルモアは、当時最も「先を行く」バンドとしてサン・ラーのバンドに加わった。多くのバンドから引き合いが来ていたにも関わらず、ギルモアはアーケストラを 選んだ。このことを見ても、サン・ラーが西洋音楽全体を、より包括的な調べを持つ表現へと高めることができたことがわかる。俺はラーを、ダ・ヴィンチ、 バッハ、モーツァルト、ピカソ、ポラックなどの最も卓越した芸術家と同等の地位に置いている。
サン・ラーの音楽を聴きながら俺は何十回もアシッド・トリップした。こういうことを言うから俺は信用を失うんだが構わない。彼と彼の仲間たちが奏でる音楽の中へ、その深淵の奥深くへ、俺は入って行った。彼が俺に、俺たちに、語りかけていることを理解した。音楽に限界はない。その表現に限界があるとすれば、それは 俺たち人間の思考の限界であり、それを超えた時俺たちは「太陽が永遠に輝き続ける」世界を見つけることができる、と。このことを自らのメッセージとして伝えていけという彼の教えを理解した。
サン・ラーは1993年5月に死去し、先に述べたテナー・サックスの巨匠ギルモアや、バリトン・サックス・プレイヤー、パット・パトリック、ボーカリスト 兼ダンサーのジューン・タイソンといった中心メンバーの何人かも相次いで亡くなった。しかしバンドはアルトサックス・プレイヤー、マーシャル・アレンの優 れたリーダーシップのもと、今日も精力的に活動している。マーシャルは70歳になるはずだが、彼の演奏ときたら本当に、火星からやって来たティーンエジャーみたいだ。
俺たちはDKT/MC5の活動をある共通の認識に基づいて始めた。つまり、このバンドをひとつの実験とすること、そして「状況を見ながら活動」していくこ とだ。昔はどんなバンドだったかとか、DKT/MC5がこれからどういう形態を取るのかとか、そういうことはより柔軟で野心的な活動の土台を得るためなら無視せざるを得ないと考えた。しかしそれも活動が成り立てば、の話で、実際このバンドが立ち行くのか確信はなかったんだ。何しろデニス・トンプソンやマイケル・ デイヴィスとプレイするのは本当に久しぶりだったし、俺たちの人間関係にはものすごくたくさんのことが起こったわけだし。
が、いざ一緒にプレイし始めてみると、まだ自分たちの演奏能力を向上させられるとわかったばかりか、一緒に楽しみながらツアーすることまで可能だと判明した。そして一つの結論に達したんだ。で、どうする?俺たち何でこんなことしてるんだ?MC5の音楽が持っていたメッセージを新しい世代のファンに継承するため?もちろん。だが究極的に、その目的はもっと大きな意義を持っていた。結局、俺達は何か創造的なことをせずにいられないんだ。バンドという枠を越え、ささやかな歓びの報酬を期待しつつ、音楽を奏でるというアートが創造できるものの限界を押し上げたい。DKT/MC5はそういう手段のひとつなんだ。
ロイヤル・フェスティバル・ホールで行われたコンサートは、まさしくそういうプロジェクトの一環であり、多くの人達の多大な努力によって実現したものだ。 いったんアイデアがまとまると、昨年夏に行った世界66都市でのツアーで満たし切れなかった計画のいくつかを実行することが可能になった。
古い友人、ハンサム・ディック・マニトバ、ギター・ヒーロー、ギルビー・クラーク、そして最強のシンガー、リサ・ケコーラを配した新しいラインアップを組んだ。ロンドン前のウォーミングアップとして短いヨーロッパ・ツアーをアレンジした。ロンドンでのコンサートを前にお互いの理解を深める意味でスペインと フランスの5ヶ所でギグをやった。あるバンドに加わるってこと、それは目的じゃない、プロセスなんだ。そのプロセスは実際プレイする前に数回のチューニングを必要とする。5人編成というのはやりやすい。ロンドンに到着する頃にはみんな自分の役割に自身を持って臨んでいた。
ロンドンでは友人のデイヴィッド・トーマスが合流した。開演前の楽屋でデイヴィッドと俺は「スターシップ」のカウント・ダウンの入り方なんかを練習した。この曲のボーカルは複雑だ。マスターするにはかなりの努力を要した。
サウンド・チェックはうまくいき、みんなそれぞれ首をハネられたニワトリみたいに忙しく準備にいそしんだ。この日すごくたくさんの取材をこなさなければならず、撮影が2件、そしていくつかの雑誌インタビューに応じた。因みに、撮影のひとつはドン・レッツ監督のサン・ラーのドキュメンタリー映画だ。
アーケストラの演奏は聴いていて楽しかった。複数のホーン、ベース、ドラム、エレキ・ギターが奏でる卓越した不協和音は新鮮でインスピレーションに満ちていた。見た目もすばらしい。舞踏と演劇というパフォーマンス・アートにおいてサン・ラー・アーケストラが果たした役割に言及されることはめったにないが、 実際には大きく貢献したんだ。誰が誰に影響を与えたのか定かでないが、60年代にデトロイトで俺たちがサン・ラーと共演し始めた時、彼らは最初アフリカの民族衣装であるダシキ・スタイルの服を着ていた。その頃俺たちはすでに新しい試みとしてスパンコールや金ラメや他のメタリックな材質のステージ衣裳を実験的に着用していたわけで、だからサン・ラーが、デトロイトのイカれた若者のグループが燦然と輝く衣服を身につけているのを目にして、それを自分たちに取り入れたとも考えられる。俺たちがサン・ラーを真似たのか、彼が俺たちを真似たのか、どっちでもいいことだ。とにかく俺たちはかつて全員そういう衣裳に身を包み、今夜のアーケストラも 変わらず美しく光り輝いていた。赤や青のスパンコールや腕輪はステージ・ライトを反射して眩い輝きを増した。ダンスもすばらしく、自由で喜びに満ち溢れて いた。
DKT/MC5はスケジュール通りにステージに上り、MC5のレパートリー、ストレートでタイトなロックンロールをきっちりやった。「その瞬間」は刻一刻と近 づいてくる。自分たちがこれからやろうとしていることを考え、予定の時刻が近づくにつれて興奮が大きく高まってくる。準備段階で俺は常に冷静を心がけ、この試みもアートの数ある優れたアイデアの一つに過ぎないと考えようと努めながら、知的レベルにおいてのみ気持ちが昂揚することを許してきた。だが今、そのアイデアが現実になろうとしている。そのここちよさを俺は感じ、目がくらむような感覚にとらわれた。
聴衆に向かって俺は、サン・ラーが俺自身とバンドにとってどういう意味を持つかを簡単に説明し、マーシャル・アレンとバンドのメンバーを紹介した。デ イヴィッド・トーマスとチャールズ・ムーア教授も紹介し、俺たちは「スターシップ」に突入した。この曲をどういう風に展開させていくか、シンプルなシナリオ を作ってあった。さり気なく自由な形でスタートしようということになっていた。小さく始め、歌が入ってくる箇所に向けて徐々に盛り上げて行き、その後は成り行きにまかせようということになっていた。実際に起こったことは俺の予測を遥かに超えていた。俺がギターで発するちょっとした音、その一つ一つにアーケ ストラのメンバーの誰かが反応して来るんだ。特にトランペッターのマイケル・レイとはすばらしい音の応酬を楽しめた。
デニスがドラムでリズムを加えれば、全員が彼に合流した。完璧に自由で、それでいて完璧にコントロールされた音楽。これこそフリーダム実行のレッスン だった。単に奔放なんじゃない。フリーダムには責任が伴うんだ。音楽においても、他の事でも、全部そうなんだ。俺たちは荘厳で歓喜に満ちたテーマを次々と探訪していった。次の丘を越えたら何が見えるのか、それを感じ取るために、あともう少しこのリズムの中に浸っていたい、俺の願いはそれだけだった。次の谷を渡ったら、次の銀河を超えたら、そこには何があるのか?
ステージ上の音が混沌としているために、デイヴィッド・トーマスが歌い出すタイミングを計れないでいることに俺は気がついた。で、俺はおもむろに歌詞の最初の部分を歌い始め、彼も加わった。「スターシップ・・・スターシップ、俺を連れて行ってくれ・・・」全員がそれに共鳴した。
アーケストラのメンバーは、ロックのコード進行を本能的に理解してついて来た。やがて俺たちはコーナーを回って最後のカウント・ダウンの箇所までやって来たが、この部分の難しい点はここでは完全に全員が同じことをしなければならず、この箇所を変化させることは許されないということだ。ここまで来るのに俺たちの速力には大きな加速度が加わっているし、リズムを持った言葉がもの凄いスピードで発せられる。
「テン。重力チェック!ナイン。極性チェック!・・・」
やったぜ!俺達は地球の引力を離れ、重力ゼロに向かって飛び出していた。
「大気圏外へ、星々の中へ・・・」
ここまで来ればアーケストラの独壇場だった。そう、宇宙こそ彼らの場所だから。俺達は銀河をクルーズし、周囲の景観を楽しんだ。
開演前に俺とマーシャルは全員が歌う部分の打ち合わせをしてあった。「我々は宇宙空間を旅する・・・」あるいは、「地球に退屈したら、いつものことだ、アウタースペース株式会社に応募すればいい」とかいう歌詞を、マーシャルは全面的に気に入ってくれた。
俺達は全員声を合わせて歌った。あの瞬間ほど広大な心地よさを感じたことはない。俺はこの歌のさまざまなバリエーションを30年に以上も歌い続けて来たわけだが、あの瞬間初めて、全てが完璧に調和したように思えたんだ。あの時、あそこで、全てのつじつまが合ったんだ。デトロイトのウォレン通りにあったジョン・シンクレアのアパートのキッチンから、今このイギリスのロンドンに至るまでの時間が、あの瞬間に凝縮されて蘇ったんだ。至福の瞬間だった。
俺達はスペース・バレーからファンキー・チキンまで、ありとあらゆる変テコなパーティ・ダンスを踊っていた。肉体と精神と魂の祭典だ。デイヴィット・トーマスが管楽器のチューバと金星人の歌唱法を合わせたようなスロート・シンギングをやり始めたのはその時だった。俺達は飛翔し吠えステージ上を目まぐるしく動き回りぶつかりひしめき合い、最後は響き渡るフィードバックがそのままファンキーなニューオリンズ・ジャズのリズムに突入する中、スターシップ乗組員は全員、一列になってステージを去り、この航海は終わった。当然だ。こういう至上の瞬間は長続きしない。
歓びをとどめておくことはできない。それが通り過ぎる瞬間に、素早くキスをかすめ取るだけさ。
オーディエンスが楽しんでくれたことは確信が持てた。だが俺自身、今起こったことのすばらしい喜びに圧倒されていた。音楽や照明や聴衆に感動したというのではなく、「生きて」いるという体験だった。終演後のバックステージは、次々と訪れる新旧の友人達で沸き返った。
喜びと満足に満ちて俺達は午前4時にロンドンを発ち、ツアーの次の目的地であるイタリアに向かった。
この公演の模様は映像と音の両方で記録した。去年のツアーで録りためた膨大なマテリアルといっしょにどんな風に録れているか確認するのが楽しみだ。何か出すのかって?報告はするぜ。
とりあえず最良のニュースは、俺達近々これをまた演るつもりだってことだ。
「どこからともなくここにやってきた。だからこの先どこへでもいける。」・・・サン・ラー
全く同感だ。
ウェイン
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