| 多くのファイブ関係者の間で、ランドゥーは今も「悪役」ということになっている。しかし、刑務所に送還される直前の混乱の中でジョン・シンクレアもランドゥーをプロデューサーに推し、メンバーも十分合意の上で決定したことである。彼らは革命から足を洗うことを欲し、ロック・バンドとして音楽業界とのつながりを回復したかったのである。この頃メンバーはすでにドラッグに蝕まれ、旧来のファンにも見離され、シンクレアは獄中、彼らは混迷の極地にあった。ランドゥ−はそんな彼らをクリーン・アップしようと努力し、メンバーに自宅周辺をランニングさせ、高タンパクの食事を取らせたりしたのだ。メンバーの評価によれば、彼はとにかくベストは尽くした、ということらしい。が、優秀なライターであったにもかかわらず、ランドゥーにはサウンドを「聴く」能力がほとんどなかった。全曲ボトムラインが薄い仕上がりはそのせいである。そして彼は完全主義者だった。誰かが1つでもキーを間違えれば録り直し、しかも全く同じように演奏しなければならなかったという。そういうことはファイブメンバーにとって全く経験のない苦行に他ならなかった。
また、バンドにおける権力関係が変わったのもこの頃である。MC5は元来ウェイン・クレイマ−のバンドであり、リーダーシップは常にウェインが握っていた。それがこのレコーディングの頃から「どうしていつもウェインの気に入るようにするんだ」ということになった。ウェイン自身の言葉によれば、「忠実な軍隊が反旗を翻した」のである。結果、バンドはよりフレッドのアイデアを重視するようになり、いわばウェイン/フレッドの共同企画体制に入った。だが2人の間には人間的確執はなく、幼ななじみの親友であり仲間だった。再びウェインの言葉を借りれば、2人は新しい「大人の関係」 の段階に入ったのである。
このアルバムは、アメリカにおけるよりむしろイギリスで好意的に受け入れられた。MC5はこの年初めて渡英するが、後に Stupidity で全英1位を獲得するパブ・ロックバンドの雄、ドクター・フィールグッドの初代ギタリスト、ウィルコ・ジョンソンもMC5に大きな衝撃を受けたイギリス人ミュージシャンの一人である。フィールグッドのデビュー・アルバム、Down By The Jetty は、ウィルコの強い意向により、MC5のBack In The USAを模したモノクロ・ジャケットでリリースされた。
さて、J. ガイルズ・バンドを知る人も多いと思うが、この頃彼らとファイブはギグを通じて知り合い、親しかった。そしてMC5の次にランドゥ−がプロデュースすることになっていたのが他ならぬJ. ガイルズ・バンドのデビュー・アルバムだったのである。しかし、Back In The USA がリリースされ、これを聴いたガイルズ・バンドは、直ちにプロデューサーの変更を決意。結果、彼らのデビュー・アルバム "The J. Gails Band" は、70年に同じアトランティックからアトランティックのハウス・プロデューサー、デビッド・クロフォードとブラッド・シャピロのプロデュースによりリリースされ、大ヒットとなったのである。このバンドはやがて70年代アメリカを代表する国民的人気バンドとなり、MC5と完全に明暗を分けた . . .
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