「コカイン・ブルース」
ミック・ファレンによるライナー・ノーツ
Cocaine Blues liner notes by Mick Farren
Reprinted by permission of the author
ラスタファリ教の予言にある通り、7が2つ重なったのが災いしたのか、1977年は悪い年だった。しかし1978年は少なくとも幸先のいいスタートを切った。この年ウェイン・クレイマーが連邦刑務所から解放されたのだ。のみならず、彼はイギリスを訪れてシングル盤を1枚録音し、さらに当時ロンドンのホット・スポットだったディング・ウォールズ・ダンスホールですばらしい凱旋ギグを行った。その時ベースを務めたのが、ピンク・フェアリーズやデヴィアンツのメンバーであるアンディー・コルクホーンだ。「タダならぬ夜ってのは、あのことだったな。」彼は言う。「なにしろウェインを歓迎するために、ありとあらゆる人間が姿を現わしたんだから。」そしてニヤリと笑うのだった。「で、俺はあの時バンドに入ってたよな?」
ファン・シティー・フェスティバルで出会って以来、私とウェインの間には深い友情が芽生えていた。アメリカに旅する折には機会が許す限り、私は彼を訪ねていた。だが70年代のデトロイトの町そのものは全く魅力に乏しい場所だった。オイル・ショックの影響でガソリンを多く消費するアメリカ車の売上が急落し、自動車工場における労働者の仕事も激減していた。日が暮れると街路に人陰はなく、酒を売る店はマジック・ミラーの向こう側に武装したガードマンを配していた。そしてデトロイト市街の状況そのままに、MC5解散後のウェインの生活もすさんでいた。失業手当ての小切手で飲んだくれる酔っ払い相手に、金曜の夜ギグをするのがせいぜいだった。仕方なかったのだ!当時デトロイトのミュージシャンは大半がそういう状況で、仕事があればまだマシな方だったのだ。
その時、私はボス・グッドマンと共にロサンジェルスに滞在して、町を歩き回ったりローリング・ストーンズのコンサートに行ったりしていた。ボスは昔デヴィアンツとピンク・フェアリーズのチーフ・ローディーを務め、後にディングウォールズの支配人となった人物だ。イギリスに戻る途中でデトロイトに立ち寄り、ウェインとしばらく楽しくやってから帰国しようというのが私の計画だった。L.A.からデトロイトまで、我々は修学旅行の生徒さながらにアムトラック鉄道で移動することにした。出発の少し前にウェインと電話で話したが、新しい車を買ったなどと羽振りがいい事を言っていた。彼は公衆電話で話していたので遠回しに語った -- こっちじゃ真冬のアラスカの吹雪並みに、白い粉が豪勢に舞ってるぜ、と。
デトロイトに向かうアムトラックの旅路は夕方早い時刻のテキーラに始まり、我々は3日半かかって目的地に到着した。モータウンに着いた時には夜の11時頃になっていたと思う。あちらでは列車の利用者は多くないようで、あたりは閑散としていた。そしてこのトゥワイライト・ゾーンに着いた我々を迎えてくれる人間はどこにも見当たらないのだ。ウェインはどうした?コカインは?ファンシーな新車は?彼が約束し我々が期待していたものはどこに?すると1台の車が現れて駅前の広場に停まった。ボロボロのマーキュリーで、ヘコんではずれかけたドアをガムテープと糸ハンガーで車体にくくりつけてある。中から出て来たのはウェインのガールフレンド、サマンサだった。
「やあ、サム」
サムは前置き抜きで言った。「ウェインがアゲられたの。」
「なんだって?ヤバいのか?」
「すごく。とりあえず今は釈放されてる。眠ってるわ。」
我々がアムトラックに揺られている間に何がどうなったのか、ウェインとサムが住んでいる場所に向かう車中で彼女は手短に説明した。その事情はこのCD の中でもウェイン自身によって語られているが、我々はその時さらに詳しい状況を知った。麻薬取締局が押収したコカインをウェインら迂闊なカルテルに前渡ししたのは、正真正銘の危険なマフィアだったのだ。私とボスがウェインの部屋に着くと、彼の仲間もそこにいた -- 逮捕のショックで茫然自失とし、しかも極度におびえていた。デトロイトのマフィアは見せしめのため、ひどい殺し方で彼らを殺す可能性があったのだ。
こうした状況を見て取って、次の列車に飛び乗り引き上げる人間もいるだろう。しかし私とボスは、英国ゼントルマンなら窮地に陥っている友のために、この地に留まるべきだと知っていた。ウェインと同じ穴のムジナということになり、我々も心底恐怖を感じた。彼も同じ状態だったと思うが、外見上は「服役覚悟の上の犯罪だ」と言わんばかりに、驚異的に悟り切った冷静さを保っていた。この先ロックを続けていこうとするなら、逃亡せずに裁判を受けて判決を待たなければならない事がわかっていたのだ。
「チャック・ベリーだってムショに入ったよな?」
「そうだよ、ウェイン。」
「でも、ベリーがムショに入って喜ぶ奴がいるか?」
「そうだよ、ウェイン。」
NME 編集スタッフは、ウェインがミュージシャンとして社会に貢献できることを判事宛に書簡を送って訴えた。そして他にもありとあらゆる嘆願書が送られたにも関わらず、ウェインは4年の実刑判決を受け、うち26ヶ月を務めて仮釈放となった。彼が解放されて郷里デトロイトではむろんハデな歓迎会が開かれたが、ロンドンにいた彼の友人とファンはそれだけで済ますつもりはなかった。我らがブラザーが釈放されたのだ、社会復帰を助けるためにできるだけの事をしたかった。ウェインが入獄して間もなく、スティッフ・レコードの主幹、ジェイク・リビエラは2つの提案をしていた。1つ目の計画は、ウェインの名をとどめ、しかも釈放されて新生活をスタートする際手元に幾許かのカネがあるように、ウェインの作品2曲をスティッフからシングル盤としてリリースするというものだった。幸い私はウェインと書いた曲のテープをいくつか持っていたから、それらをジェイクに渡すことができた。
2つ目のプランは、ウェインの保護監察司の許可を得られ次第、彼をロンドンに呼び寄せてシングル盤をレコーディングさせ、ディングウォールズ・ダンスホールで大々的に祝賀ギグを行うというものだった。そして待望の社会復帰を祝うショウで彼のバックを務めるバンドと言えば、悪名高いピンク・フェアリーズ OB をおいてあり得なかった。
我々は長年あの時のことは思い出の一つと考えていた。ところがある日アンディー・コルクホーンが、2.5 インチテープを積めたホコリだらけの箱の中から「クレイマー - ディングウォールズ」と書いてあるテープを発見したのだ。というわけで諸君、ウェイン・クレイマーがピンク・フェアリーズと出会い、ディングウォールズを興奮させた夜、そして彼が服役中にリリースされた2トラックと釈放後に行ったレコーディングが、ここに再現されたのである。
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