この年、デトロイトのユナイテッド・サウンド・エンド・テラ・シャーマ・スタジオにおいて、MC5として初めてのレコーディングが行なわれた。ウェイン・クレイマーによると、経験のない若いバンドにかなりの悪条件で行われた録音だった。またこの年、ロブが22歳で結婚した。

MC5とジョン・シンクレアが出会ったのはこの年の10月だった。シンクレアがMC5のマネージャーであった期間は2年に満たないが、彼はバンドに圧倒的影響を与えた。まさに、MC5というバンドはシンクレアによって形を与えられたと言ってよい。


Photo courtesy of Leni Sinclair

この頃シンクレアはすでにビートニクのカリスマ的リーダーであり、詩人、ヒッピー・キング、カウンター・カルチャーのシンボルとしてマスコミにも知られた存在だった。アートのイベントやワークショップを主催し、ローカルのアンダーグラウンド・ペーパー数紙にコラムを持ち、絶え間なくマリファナを吸う、この落ちこぼれの教師はまた、ジョン・コルトレーンに代表されるフリー・ジャズを熱狂的に愛好していた。シンクレアはロブ・タイナーのアイドルであり、彼が主催するアヴァンギャルド・ジャズや詩のイベントに、ロブはたびたび参加していたため、面識はないもののウェインはロブの話しからシンクレアのことをよく知っていたという。ある時シンクレアは、フィフス・エステイトというアングラ紙のコラムで、ロック・ミュージシャンのことを、コルトレーンはおろか、ジャズを聴こうとしない非創造的で想像力に欠けるヤカラである、と批判した。これに対し、MC5は論戦を挑む。なぜならロブの影響で、バンドはフリー・ジャズに傾倒するようになっていて、そこからすでに大きな影響を受けていたからである。この論戦が縁で、MC5は当時シンクレアが主催していたアーティスト・ワークショップという集団がコミューンを営んでいた家の門を叩き、地域のアーティストに開放されていたそこの練習場をリハーサルに使用させて欲しいと頼む。結果、リハーサルする彼らの音楽を聴いたシンクレアは、完全にこのバンドに魅了されてしまうのである。間もなく彼はさまざまな紙面にMC5を賞賛する文章を送り始める。

MC5と深い関わりを持つコンサート・ホール、グランディ・ボールルーム(The Grande Ballroom) がデトロイトの中心部に オープンする。この頃までに郊外型のティーン・クラブは下火となり、市の中心部にあるもっと規模の大きいホール形式のライブハウスが人を集めるようになっていた。グランディをオープンしたのは、サンフランシスコのアヴァロンやフィルモアなどロック専門のコンサート・ホールの盛況に刺激されたデトロイトの教師、地元では「アンクル・ラス」として知られていたラス・ギブという男で、3千人を収容するこのホールにはやがて、ジャニス・ジョプリン、ザ・フー、クリーム、ジミ・ヘンドリックスといった、世界的なロック・スターが出演するようになり、デトロイトのロック・シーンを牽引した。60年代デトロイトにおけるグランディは、70年代ニューヨークにおけるCBGBみたいなものであり、違うのはCBGBが犬の糞と吐瀉物と落書きだらけの汚いクラブだったのに比して、グランディは1930年代に建築されたアール・デコの巨大な建物だったという点だ。もともと30年代の多人数のバンドで踊るダンスホールとして建設されたこの建物は、屋外を感じさせるくらい高い天井、美しい木の床、ホールをぐるりと囲むモロッコ式アーチのついた回廊など持つ壮大な建造物だった。高く積み上げたマーシャル・アンプがトレードマークのMC5のフル・ボリュームのサウンドもよく支え、またこの頃からロック・コンサートと合わせて行われるようになった「ライト・ショウ」にも最適の環境を提供した。グランディをオープンして間もないラス・ギブは、トランス・ラブ・エナジーの練習場でリハーサルしていたMC5を訪れ即座に気に入り、間もなくグランディ・ボールルーム・ハウス・バンドの契約を結んだ。思う存分リハーサルができる広い場所を求めていたファイブにとっても渡りに舟の申し出だった。ただし、採算がとれるようになるまでしばらくかかり、その間冬期でも暖房が入れられることがなかった。ミシガンの冬は寒い。バンドはコートを何枚も重ね着して練習したのである。一方アーティスト・ワークショップはアーティスト集団でもあったから、シンクレアはMC5のハウスバンド契約と合わせてライト・ショウのスタッフと一人のポスター・デザイナーまで一緒に契約させる事に成功する。このデザイナーこそ、ロック史における伝説的ポスター・アーティスト、ゲイリー・グリムショウだった。

社会の大きな変化として、この頃から台頭して来た黒人ナショナリズムが挙げられる。キング牧師の非暴力・人種統合路線に疑いを持ち始めた若い黒人達の間で、白人との融和を拒否して黒人のアイデンティティーを主張し、武力で自由を勝ち取ろうとするムーブメントが生まれた。この年、スニック(SNCC)議長となったスト−クリ−・カ−マイケルは、「ブラック・パワー」を提唱し、黒人に自己防衛の意識と人種としてのプライドを持つよう訴える。その急先鋒はブラック・レザーで身を固めたブラック・パンサー党だった。この年ボビー・シールとヒューイ・ニュートンによって結成されたこの過激な武装集団はやがて白人の若者の支持さえ得て、大きな社会運動に発展する。

サンフランシスコのヘイト・アッシュベリーを中心に広まったヒッピー・ムーブメントやサイケデリック・ミュージックもピークを迎えようとしていた。アヴァロン、フィルモアからも数マイルに位置する、せいぜい6ブロックほどのこのエリアは、当時のサイケデリック・カルチャーのメッカだった。ラブ、フラワー、ピース、LSD、ボディ・ペインティング、ロング・ヘア−、etc. と、キーワードはいくつも浮かぶが、各種のドラッグによってドライブされた創造性と想像力に基づく白人中心のオメデタイ文化だったと言えなくもない。音楽は彼らの思想の中心にあり、ジミ・ヘンドリックス、グレイトフル・デッド、シャーラタンズ、ドアーズ、ジャニス・ジョプリンなどがヒッピー御用達のバンドだった。既成の道徳観念とキリスト教の倫理観に基づく西洋文明中心主義を根底から覆し、反戦/反人種差別を支える大きな勢力となったという点では意味のあるムーブメントだった。現在50代のアメリカ人は全て多かれ少なかれ、このヒッピー・カルチャーの洗礼を受けているのであって、立派な壮年ビジネスマンでも当時の写真なんか見せてもらうと、極端な長髪にヒゲ、丸いサングラス、そのギャップといったらまったく言葉を失うほど仰天するのである。

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