ウェインはロブをベースに据えようと教え始めるが上達せず、結局この年の冬新しいベースを迎え、ドラムも入れ替えて次のラインアップとなった。

ウェイン・クレイマー(リード・ギター) / フレッド・スミス(リズム・ギター)
パット・バロウズ(ベース)/ ボブ・ガスパー(ドラム)

この時点でロブはバンドを離れるが、出て行く時にバンド名を The Bounty Hunters から、MC5と命名して去るのである。すごくカッコいいバンド名だと個人的に思っている。"MC5"は必ずしも"Motor City Five" を意図したわけではなく、ウェインが述べるところによると、もとはと言えば「クルマのパーツ」をイメージしてつけたもので、つまり「自動車部品のシリアル・ナンバー」を表わすのだという。詩人ロブ・タイナーがつけただけのことはある、デトロイトのバンドにふさわしい、いいバンド名だと思う。ついでに言うと、ウェイン・カンベスをウェイン・クレイマーと名付けたのもロブだった。ウェインは自分を捨てた父親が、万一有名になった自分を見つけ出さないように、名前を変えたかったのである。「クレイマー」は、「『クレイマー・スープ』みたいな軽い響きで」(ウェイン)彼の気に入ったのだ。

こうしてMC5はコピー・バンドとしてスタートした。ハイスクール・パーティー、ダンス・パーティーなど、演奏する機会はいくらでもあった。さらにデトロイトではナイト・クラブ・シーンが繁栄していたから、コピーを演りさえすれば仕事はいくらでもあった。15分の休憩を入れて、1セット45分のステージを1晩5回。それを週7日。

トップ10のコピーを演っていれば問題もなく、金も入った。しかしトップ10のコピーに明け暮れていたのでは、決して自分たちがトップ10にはなれない事が彼らにはわかっていた。そしてバンドとしての新しい道を模索し始めた矢先、テレビのスクリーンに突如現れたのが、「ザ・フー」というイギリスの若者4人組だった。とてつもなくラウドで、エネルギッシュで、自分たちと同じように、チャック・ベリー、ジェイムス・ブラウン、ブルース、R&Bなどブラック・ミュージックのベースを持ち、しかもこいつら、ホワイト・ボーイズなのだ!エネルギー、パワー、ラウドなエレクトリック・サウンド。ザ・フーの登場によりバンドの方向は決まった。しばらくして、エド・サリバン・ショウにストーンズが登場する。ウェインとフレッドは次第にフィード・バックやディストーションに興味を持つようになる。
この年の夏、デイブ・レオンとエド・アンドリュースが、デトロイト郊外のハーパー・ウッズに最初のティーン・クラブをオープンさせた。「ザ・ハイドアウト」という。以後、郊外に次々とティーンを対象とした小規模なクラブがオープンし、デトロイトは空前の音楽ブームを迎える。また、この年ビートルズが初めてアメリカ公演を行い、国中の若者に熱狂的に迎えられた。

一方、ビート・ムーブメントから連なるカウンターカルチャーと,62年に学生たちによりポート・ヒューロンで表明された新しい民主主義を求めるムーブメントは大学構内にさらに浸透していく。UCLAで哲学を学んでいたマリオ・サヴィオは「フリー・スピーチ運動」の指導者として学生を管理しようとする大学権力に対する闘争を開始した。10月カリフォルニア大学バークレー校で始まった学園紛争はやがて60年代末までにアメリカ全土数百の大学に拡大し、UCLAは学生運動のメッカとなるのである。

ケネディ政権下の副大統領、リンドン・ジョンソンは、ケネディの死によって大統領に就任していたが、この年ケネディの遺志を次いで公民権法を成立させた。ここに、公共施設における人種差別は違法となったのである。その結果として、人種差別主義者の暴力がエスカレートしたのは、この年の夏頃からである。6月から10月にかけて、20以上の黒人協会に爆弾が投げ込まれ放火された。最悪だったのは、こうした暴力がFBIや警察関係者にバックアップされていた事である。フィラデルフィアでは代理保安官らのグループによって3人の公民権活動家が殺害された。ジョンソン大統領はしかし、南部の白人の支持を失う事を恐れ、これらの動きに対し何ら決定的な措置を取らなかった。そのため、人種差別主者のテロは実際野放し状態だった。ジョンソンのこのような姿勢は公民権法を立法化させた立場とは相反するものであり、公民権活動家の不信を招く事になった。
ジョンソンがさらにリベラル派の反感を買ったのはそのヴェトナム政策だった。この年の8月、アメリカは自国の戦艦マドックス号が、「北ヴェトナムから攻撃を受けた」として反撃を開始した。しかし本当に攻撃を受けたのか、はなはだ疑問であり、実際にそれは「反撃」ではなく、アメリカによる本格的北ベトナム攻撃開始の口実に過ぎなかったと言われている。

この年はまた、アメリカ北部で最初の「長く暑い夏」が起こった年でもあった。夏期に発生する黒人による人種暴動である。ニューヨーク州のハーレムやロチェスター、ニュージャージー州のいくつかの都市で黒人の怒りが爆発した。公民権運動は主として南部の黒人の権利拡大に向けられており、そうした権利は北部の黒人にはかなり以前から認められていたのだ。それで北部の黒人たちは自らの貧困に目を向ける事になったのである。彼らの人口は都市に集中していて、居住区の人種隔離が進んで都市中心部は荒廃し、劣悪な環境の中で彼らは極貧にあえいでいた。南部では、カフェテリアのカウンターで黒人が白人の隣に座るのを黙認すればよいだけだったのに、北部の都市におけるこのような状況を是正するためには巨額の費用が必要だった。

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