ウェイン・クレイマー(本名ウェイン・カンベス)が母親と共にデトロイト郊外の町、リンカーン・パークに引っ越して来る。ウェイン少年は14歳。実の父親は彼が幼い頃蒸発したきり行方不明。母親の当時のボーイフレンドが、ギターを弾きカントリーミュージックを歌う南部出身の男だった。この人物を通じてウェインはギターに興味を覚えるようになる。毎週金曜日、自動車工場から支払われた週給を手に男がウイスキーをぶら下げて帰宅すると、少年は彼と一緒に2人が共に愛する女性のためにギターを弾き歌った。息子が音楽に興味を持つことに対し、母親は一貫して協力的であり、それはウェインが後になってバンドを結成してからも変わる事はないのである。ウェインはやがて、およそあらゆる女性が--母親さえも--エルビスに夢中であるのを知り、音楽こそがすばらしい女性を手に入れる魔法であると信じるようになる。
リンカーン・パーク・ハイスクールに転校してきて間もないウェインだったが、バンドを結成したくて周囲でメンバーを募ったところ、フレッド・スミスという、落ちこぼれアウトローの噂を聞く。ウェインも優等生とは言えなかったが、フレッドは彼をはるかに凌ぐワルだった。喫煙、飲酒、ケンカ、万引、窃盗(店のガラスを叩き割り商品を洗いざらい持っていく)と、非行は数知れなかった。しかし、フレッドは聡明な少年であり、しかもハンサムで人気者で、そして音楽に大きな興味を抱いていた。2人はすぐに友達になり、夏休みの間中、ずっと一緒にギターを練習する。
ウェインにはまた、リックという同い年の友達がいた。後にMC5のボーカルとなる、ロブ・タイナーはリックの兄で、地元ウェイン州立大学の1年生だった。母子家庭で育ったウェインにとって4歳年上のロブは兄というより父親に近い存在であり、しかも彼はビートニクなのだ!禅を学び、ジャズを聴き、絵をたしなみ、エスペラント語を操るロブ。 外界から超脱したこのアーティストにウェイン少年はすっかり魅了されてしまう。ウェインはチャック・ベリーやジェイムス・ブラウンの大ファンだったので、ロブにもロックンロールやR&Bのすばらしさを理解してもらおうと熱心に語るが、彼はウェインにおごそかに言うのだった。「ロックなんてちっともヒップじゃない、時代遅れさ。ジャズこそが本物なんだ。ジーン・アモンズとかソニー・ロリンズ、それにジョン・コルトレーンを聴かないようじゃダメだね。」
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第2次世界大戦と朝鮮戦争を経て、デトロイトの重工業・自動車産業は大変な好景気にあった。多くの仕事があり、それを求めて各地から人口が流入し、工場労働者のためのナイトクラブがあちこちにできて、それがライブ演奏をするミュージシャンに仕事の場を豊富に提供していた。当時、デトロイトに住む少年たちの未来には3つのシナリオしかなかった:軍隊か、車の生産ラインに並ぶか、刑務所である。そしてごく一部が大学に進学した。そのいずれも欲しない者にとって、音楽は唯一の脱出口だった。青少年はミュージシャンに憧れ、ウェインが住んでいたような郊外のブルーカラーが多く住む住宅街には、1つのブロックに1つのバンドがあると言ってもいいくらいだったという。そしてその頂点にはもちろん、「モータウン」があった。こうして工場の町デトロイトに、同時代のアメリカの他の地域に類を見ない、空前の音楽シーンが形成されていくのである。2つの戦争を経て、アメリカ国民はまた物質文化を謳歌していた。電化製品、家具、車、そして大型スーパー、「シアーズ」では、エレキ・ギターが125ドルで買えたとウェイン・クレイマーは回想する。フェンダーやギブソンでもおよそ300ドル、それでも青少年の手が届く範囲内にあった。このことがデトロイトのみならず、この時期アメリカにおけるロックの発展に大きく寄与したと言える。 |
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一方、白人社会がアメリカン・ドリームに酔いしれていたこの時代、自由と平等を求める黒人の人権運動(公民権運動)も、着実に力強く進行していた。1960年2月1日、ノースカロライナ州グリーンズボロという町で、4人の黒人学生が白人専用のカフェ・カウンターに座り込んだ。最初の歴史的「シット・イン」座り込み運動の始まりである。彼ら、キング牧師率いるSCLC(南部キリスト教指導者会議)の活動家達は、白人専用の簡易食堂、図書館、バス停で座り込み運動を開始し、それは数週間の内に南部全域に拡大した。 |
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間もなくSNCC(学生非暴力調整委員会「スニック」)が創設される。そしてこの組織こそが、近代アメリカ史における「激動の60年代」の起爆剤となり、時代を牽引するドライヴィング・フォースの機能を果たすのである。スニックは翌年5月、白人による攻撃の危険も顧みず、CORE(人種平等会議)と共に長距離バスの人種隔離撤廃を求めてバスに乗り込んだ。「フリーダム・ライド」運動の始まりだ。62年9月、黒人として始めてジェイムズ・メレディスがミシシッピ大学に入学したのを機に暴動が発生、2人が死亡、多数が負傷した。これより先60年にリチャード・ニクソンを僅差で敗り大統領となっていたジョン・F・ケネディは、公民権運動の高まりを無視できず、メレディスを保護するために連邦保安官を派遣した。またアメリカ軍のU-2偵察機がキューバのジャングルの奥に、ソ連の中距離ミサイル基地建設現場を発見したのはその翌月だった。
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この頃から主として白人中産階級の若者の価値観に、新しい潮流が兆し始めていた。既成の社会システムに対する反抗と、高度に産業化された物質文明の中で抱く疎外感を共有し、彼らは両親達が築き上げてきた白人プロテスタントの文化を否定する事で、新しいライフ・スタイルやモラルを追求しようとしたのである。アメリカは、1950年に軍事援助の形でベトナム介入を開始し、1954年までには既に20億ドル以上をベトナムに費やしていたが、若者たちの反抗はベトナム反戦運動や公民権運動とも結びつき、60年代のアメリカ社会を根底から揺さぶる対抗文化すなわち「カウンター・カルチャー」に発展していくのである。
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