April 2, 2004
Dennis Thompson's Categorical Imperative
Translation by permission of Svengirly Music

2004年4月2日
デニス・トンプソンによる至上命令

俺が今から言おうとしていることは、正真正銘、俺の正直な気持ちだ。だからみんなもオープンな態度でこれを読んで欲しい。

フューチャー/ナウと俺たち3人をめぐって今起きている事件(つまり、ワーナー・チャッペルがライセンス使用停止命令を発動させ、それに対抗してフューチャー/ナウとベッキー・ダーミナー(タイナー)がウェイン個人を相手取り、彼が自分の作品に対して有する権利を放棄するよう訴訟を起こしたこと)は、実際にはフューチャー/ナウのジレンマとも言える問題なんだが、これに対して俺自身も何らかの態度を表明せざるを得なくなった。

俺が初めて彼らに会ったのは1996年、グランディ・ボールルームでだ。第一印象はよかった。それ以後は数えきれないくらいの回数の電話、映画のためのインタビュー収録、資金集めのイベント出席を含め、彼らのプロジェクトを実現してやるために、自分の時間を100時間以上費やした。彼らに出会ったその日から、俺はあの映画のプロモーション活動を始めたんだ。

そして今、ウェイン、マイケルと俺は、次に為すべきことをしようとしている。つまり、現実的・比喩的両方の意味で石矢を浴びせられながらも、とにかく前進するってことだ。だが今になってもまだ、何かをしてもしなくても、俺たちを誹謗する人間がいる。

俺のバンド仲間が言ってることは真実だ。俺たちは一度だって、フューチャー/ナウがMC5のストーリーを映画化しようとするのを妨げようと画策したことはない。それどころか、俺たち一人一人が、彼らの計画を援助してやるために、ありとあらゆる有形無形のサポートを提供したんだ。繰り返すが、これは紛れもない事実なんだ。

論争がまたもや起きてるが、MC5ってバンドは言わば底知れないブラック・ホールみたいなもので、全てのメディアのあらゆる隅々から常にトラブルを引き寄せる性質を持ってるのさ。ファンやジャーナリストや関係者と称する人間たちが、自分らの個人的問題をMC5に転嫁して何かを説得しようとするのには慣れっこだ。何も変わらない。だがこれまでも、この先も、バンドとして俺達に最も重要なのは、「音楽」なんだ。

メディアが好んで煽動する、このテの部外者グループが吹聴するナンセンスは、レコーディングやツアーといった俺達本来の活動には、いっさい何の関わりもない。いいことも悪いこともしでかしたバンドだ。しかし、俺達本来の姿は、音楽を演奏し、その行為によってみんなと同じように食っていく「プロのミュージシャン」なんだ。普通の人たちと同じように、俺達にも請求書は届くんだ。そして今またもや、犯してもいない悪事を激しく糾弾されて、クリエイティブな活動の時間を犠牲にして自分の身を守らなければならないハメに陥ってるわけだ。まったく、何かをしてもしなくても非難されるってのは、こうも繰り返されるものかね!今まで俺達の音楽をライブで聴くチャンスがなかった奴らのために、俺達はワールド・ツアーに出発するところだ。そっちの方が断然重要なんだ。どっかの映画会社のことでワメいたり怒ったりしてる場合じゃないぜ。

ただ、ひとつ言っておきたい事実がある。

フューチャー・ナウは、俺が人生で最悪の不幸を味わってる時に俺のインタビューを撮影した。オフクロが4日前に死んで、俺はその時ドラッグとアルコールでひどく自暴自棄になってたんだ。正気を取り戻すまでインタビューは延期してくれとデイブとローレルに必死で頼んだが、「だいじょうぶ、できるから!今やるんだ!」と言われた。俺は普通の状態に戻るまでやりたくなかった。が、結局承知しちまったんだ。

(映画を観た奴なら知ってるだろう。俺はまさしく、怒りっぽく不機嫌で皮肉屋の、口汚いラリった札付きの不良メンバーとして登場するんだ。)

インタビューが強行されるまで俺は、1998年1年間を通じてクスリや酒は一切やってなかった。その期間には全く撮影がなかったってのも妙だったが、今思えば不思議はない。撮影後しばらくして俺は奴らに電話し、インタビューの撮り直しを頼んだ。きちんと撮れてなかったのはわかってたから、悪いけど今度こそちゃんとやるからと頼んだ。が、デイブは俺の懇願を一蹴した。「この後に及んで混乱させないでくれ」と俺を非難し、撮影された映像で十分だと言った。「正しい」行ないが聞いて呆れるぜ。

シカゴで初めてあの映画を観た時、俺は平静を装い、表面上は上映を祝福した。が、心の中では完全に打ちのめされてたんだ。インタビューされる自分がどう見えるか、心から恥じていた。騙されハメられたと感じていた。カメラの前で俺は全くヒドかった。あれを観た誰もがそう感じたと思う。フューチャー・ナウは求めていた映像を手に入れたんだ。よかったな。おかげでこっちは惨憺たる心境だぜ。

最終的になぜ俺があんな風に描かれなければならなかったのか、少なくとも納得のいく説明が欲しかった。が、得られた答えは、これは「俺の」バンドを描いた、「みんなの」映画なんだからということだった。フューチャー・ナウがビジネスを行なうやり方で、これが問題な点だ。つまり奴らは秘密主義で、事実をその都度明らかにしない。俺のパーソナリティーを勝手に作り上げ、修正を拒絶し、自分達に都合のいいイメージに俺を当てはめる権利が、奴らのどこにある?自分達の目的には都合がよかったということだろう。

デトロイトで上映が行なわれた時、俺は自分の描かれ方に対してもの凄く憂鬱な気分になってた。家族があれを観てどう感じるか、それを思うと惨めな気持ちだった。それでも俺は上映に文句は言わなかった。フューチャー・ナウのプロジェクトを邪魔したことは一度だってない。今俺は3年半、ドラッグとも酒とも無縁の生活を送ってる。なるようになれ、って生活態度だから、つい最近までこの件には関わらなかった。

それが今、自分には全く無関係な論争の渦中で、いきなり横ツラをひっぱたかれた気分だ。汚い卑劣なビジネス戦法の編み出し方が知りたけりゃ、フューチャー・ナウとベッキー・タイナーに訊いてみたらいい。俺が一番アタマにくるのは、自分を「弁護」しなくちゃならないハメに無理矢理陥らされたって点だ。だからフューチャー・ナウに関して、俺の経験をありのままに伝えたまでさ。

この映画がワーナー・チャッペルからライセンスを受けていないということ、フューチャー・ナウは法を犯し、俺の信頼と人間関係を裏切ったってことだけは、よくわかっている。

フューチャー・ナウには、ウェインと話し合い、合意を得る機会と時間が山ほどあったってことだけは、よくわかっている。

奴らはそれをしなかったってことだけは、よくわかっている。簡単明瞭だ。

で、今、公明正大な意見交換の場ってヤツで、またもや戦闘開始か?そうらしい。嘆かわしいことだが、そうらしい。

だが、この上もなくすばらしいニュースもある。MC5の生き残った仲間達と共に、ファイブの音楽をプレイし讃えるチャンスが巡ってきたことに、俺は涙が出るくらい感激してる。ロブとフレッドが生きてていっしょにやれたらいいのにって、心の底から思う。2人共を俺はよく知ってた。何かの形で奴らを思い出さない日はない。ステージの上で、奴らは俺の心の中にいる。俺が叩き出すビートの一つ一つに ヴァイブしながら。

この問題の混乱が、俺の正しい意志と、そして何よりも、正しい行動を阻むのを許す訳にはいかない。

確かにウェインとは過去、意見の衝突もあった。でも俺達は、人間的に成長し、いっしょに仕事をするために、違いを克服し争いを永遠に止めようと和解したんだ。離別の苦しみを味わうのはもうたくさんだ。人生の中で全てが変化し、時と共に俺は、平和と静穏と、新鮮な精神的喜びを選ぶようになった。許すことで自分の魂も癒される。

早くしないと、未来に向かって共に行動するタイミングを逸してしまう。

「世間の評判より自分の性格に注意を払いなさい。自分の性格とは、あなたが知っているあなたであり、世間の評判は、他人が思っているあなたに過ぎないのだから。」-- デイル・カーネギー

敬具

デニス・「マシンガン」・トンプソン
向上を目指せ!

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