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MC5やデトロイト・ロックに関心のある人達にこのインタビューを紹介したいと、長い間思っていた。2000年10月、ケン・シマモトがデトロイトのアン・アーバー在住のロン・クックに行なったインタビューである。

「ロン・クックって誰?」という人がほとんどだと思う。生粋のデトロイター、ミッチ・ライダーの「デトロイト」、ソニックス・ランデブー・バンド、ギャング・ウォー等々、デトロイト・ロック界を縦横無尽に渡り歩いてきたベーシスト、彼こそデトロイト・ロックの生き字引である。 今回やっと翻訳に着手でき、ケンの快諾も得てようやく掲載することができた。ロンが語るデトロイト・ロック魂の物語を楽しんで頂きたい。

なお、彼がここで語っている音源が2005年にクック自身のプロデュースによってCD化された。彼の言葉が決して大言壮語でないことを立証するデトロイト・ロックの集大成とも言える1枚

Interview by Ken Shimamoto in October, 2000 for I-94 Bar. Reprinted in Japanese by courtesy of the interviewer. Many thanks Ken for your cooperation for MC5 Japan.

初期

デトロイトってのは偉大な音楽基地なんだ。ものすごく多くの人間が音楽に関係してる。デトロイトの音楽シーン全体を考えると、このコミュニティーからどれだけいろんな音楽が生み出されてきたか、信じられないくらいだぜ、ほんと。俺はデトロイト郊外の小さな町の出身なんだが、3人で1台のアンプにプラグインしてたよ、そういう状況だった。最初のギグは12歳の時でね、なんとコボ・ホールだぜ。実際すごい人気バンドだった。ボビー・デイトン・エンド・ザ・デ イトナズってグループだ。(後にミッチ・ライダー・エンド・ザ・デトロイト・ホウィールズに発展した)ビリー・リー・エンド・ザ・リビエラズとデトロイト最高のバンドの地位を争ってたくらいなんだから。だからそう、デトロイトの音楽シーンとの関わりはほんとに長いよ。60年代始めにさかのぼるわけだから。ほんのガキの頃からな。ギグの仕事に出かける時はオフクロが車で送ってくれてたんだぜ!ほんと、昔の話だよ。

13,14かそこらでコボ・ホールでシュープリームスやチョーカー・キャンベル・オーケストラやボー・ブラメルズなんかと演ってさ、その6週間後にはデイ ブ・クラーク・ファイブやあのクラスのバンドとマソニック・テンプルに出演してるって具合だった。そういうことを始める前でさえ、あの郊外の小さな町で、そういう有名ミュージシャンたちからギターを習ったり、そばにタムロして話をしたりしてたんだ。

MC5

デトロイトでMC5、フレッド、他のメンバーたちと知り合ったのはずいぶん昔のことだよ。俺たち15歳くらいだったかな。その頃奴らはまだMC5にもなってなかった。ミシガンのアレン・パークでツッパってただけだった。あいつらとみんなでいっしょに音楽シーンを出たり入ったりしてたわけだよ。ほんとに人生ずっと いっしょにな。つまり、俺達みんなデトロイトの南西部で、郊外で育って、ライブをやったりバンド同士でケンカしたり、いろんなヤバいことしたりな、なに しろ63年だぜ。大昔の話だよ。デトロイトの奴らってのはあんまりグループを組んたりとか排他的なところがなかったが、影響力があって突出してた奴らってのが一部にはいたわけだ。

[ミッチ・ライダーの]「デトロイト」に入る前、俺はザ・キャットフィッシュなんかにもいたんだが、ただのバー・バンドだったね。デトロイトやオハイ オのトレドなんかのナイト・クラブを回ってるだけだった。デトロイトに加わった時のことは覚えてる。その頃俺は音楽ビジネスにはあんまり関わっていないブランクの時期だったんだが、ある日電話が掛かってきて「オイ、ちょっと出て来ないか?」って言う。で、次の瞬間にはバンドのバンに飛び乗ってデトロイト市街に戻ってたよ。わかるか?バック・オン・ザ・ロードってわけさ。要するにいつもそんな感じで戻ったりやめたりしてたんだ。

ミッチ・ライダーの「デトロイト」

で、「デトロイト」の奴らと一緒にスタジオ入りしたわけだ。手持ち無沙汰でみんなツッ立ってたら[プロデューサーの]ボブ・エズリンが「なにやってんだよ、始めようぜ」って言う。スタッフがちょっと出たり入ったりした後で、俺が「え〜と、こんな曲作った」って、[「ボックス・オブ・オールド・ロージズ」 は]そんな風に一発録りでレコーディングしたんだ。あの歌をみんなで録音したんだが、あのセッションの時デトロイトはロカビリーをやってたから俺はウッ ド・ベースも弾いたんだよ。もう1枚全く別のアルバムを録音したようなもんだが、結局そっちがリリースされることはなかった。あの時レコーディングした曲の権利のほとんどは、ザ・ゲス・フーの奴らが買い占めた。買い戻せたらと思うよ、つまりあれこそまさしく真の「デトロイト」の音なんだから。レコードでリ リースされたのはプロデュース用の、一般受け用の音楽だった。本物のデトロイトはライブ・バンドだったんだ。ノンストップ・爆走ロックンロール・パー ティーだよ。音楽のな。ほんとにいいバンドだった。優れたプレーヤーがいたし。

ある時なんかな、MC5と出かけてったことがあったんだが、俺たちデトロイトとMC5とボブ・シーガーだぜ。1971年頃かな、ファイブが解散する直前だ。ボストンのクリスマス公演でな。スゲえショウだったよ。ブッ飛びデトロイト・ショウだ。騒ぎを収めるのに警察を呼びやがってな、俺は屋根から逃げたよ。全く凄いギグだった。

[もとアンボイ・デュークスのボーカル]ラスティ・デイと俺と[ギタリストのスティーブ]ダンスビーとで一時期「カクタス」ってバンドをやってたことがあ る。ラスティーといっしょにデトロイト南西部を回ったよ。6〜8ヶ月もやってたかな。そこら中旅してな、ジャクソンビル・スポーツ・アリーナじゃ1万5千人くらい集めてトリだったんだぜ。どうしてカクタスに入ったかって言うとな[カクタスのオリジナルメンバーはもとデトロイト・ホウィールズのジム・マッ カーティと、もとヴァニラ・ファッジのメンバー2人]、ちょうどその頃デトロイトは解散しかかってたんだ。レコード会社とカネのことでモメちまって、借金もあったし、年間ライブ280回ってのが6年半、バンの後部座席で寝泊りし、国中プレイしながらドライブして回るって生活のせいだった。あと少しでそういう難関を乗り越えられるってとこで解散しちまった。俺たちのレコードはルー・リードの歌[ロックン・ロール]といっしょにトップ40入りしたん だぜ。最終的にはデトロイトが解散したあたりでカクタスも解散しちまったがな。とにかく、俺がまだデトロイトにいた時、ラスティ・デイをボーカルに入れた。その後俺たちが脱退してラスティーは残り、デトロイト市内で他の奴らを集めてしばらくデトロイトを続けた。で、俺の方は次に何が起こったかって言う と、電話が掛かってきてフロリダに来いって言う。「こっちに来いよ、リハやってんだ、いっしょにこのバンドやって欲しいんだよ」ってな。で、出かけてって 2,3週間リハーサルしたかな。で、そのバンドはカクタスってことで始まったんだ。ギターを弾いてたダンスビーの奴とはそうやって知り合ったんだよ。

ソニックス・ランデブー・バンド:誕生

ソニックス・ランデブーの基礎が結成されたのは、73年か74年だったと思う。デニス・トンプソンから電話があって、まとめようとしてるバンドがあるって言うからバイクに飛び乗ってデトロイト市街に出かけて行き、デニスに会った。フレッド[スミス]も確か一緒にいたと思う。俺とフレッドとデニス、あとも う一人いたかな。しばらくこのバンドのことで構想みたいなものを話し合って、それから集まって2、3回ジャムをやったんだが、結局モノにならずボツになっ た。ところが、8〜9ヶ月くらいしてから、フレッドはその頃デトロイト西部に住んでたんだが、奴から電話があった。俺とフレッドとドラマー・・・名前は思い出せないな。デトロイトのフレッドの家の地下でリハをやる相談をし、ジャムをやってデトロイト東部で何回かギグをやった。

その頃俺はデトロイトを辞めて1年半くらいってところで、いくつかのバー・バンドと何回かギグをやったりしてたが、ただジャムみたいなことをしてるだけだった。そこへフレッドから連絡があってそういうことを一緒にやり始めたってことだ。でオレとフレッドの人間関係みたいなものが出来上がって、友達になったわけよ。2人ともバイクを持ってたからいっしょにデトロイト市内を走り回ったりしてな、グリーク・タウンに出かけたり、デトロイトの俺の暴走族仲間と遊んだりな。ハリー・フィリップスがいっしょの時もあった。「デトロイト」でピアノを弾いてた奴だ。そんなことを3、4年もしてたかな。ちょっとバンドを組んじゃあ、ジャムをやって何回かギグをやるって生活だ。そのうちにスコット・モーガンが入ってきたんだよ。フレッドがスコットを入れたんだ。するとそいうことがもっとしっかりしたものになっていったんだ。もっと真剣にな。何回もきちんと練習して、ギグの回数も増えていった。

初期のギグのことは覚えてる。俺の知り合いにデトロイト東部でバーをやってるチンピラがいたから、そこで幾晩かライブをやった。昔の「マイアミ」でも何回かやったと思う。ウェイン州立大学のキャンパスのとこにあったマイアミでな。アン・アーバーのセカンド・チャンスでも数回やったよ。それはよく覚えてる。あそこは当時のアン・アーバーじゃ高級な部類のライブ・ハウスタイプのハコだった。他でも何回かやったはずだがよく覚えていない。俺達がフレッドの家のダイニング・テーブルに腰掛けてた時のことを覚えてるよ。ドラマーがいっしょだった。スコット・アッシュトンが加入する前の話だ。ほんとにごく初期の話だよ。ソニックス・ランデブー・バンドは最初とにかく俺とフレッドだけだったんだから、そうなんだよ。俺とフレッドだったんだ!ドラマーもいやしない。他には誰もいなかった。午後になると俺がデトロイト西部にあったあいつの家に出かけてって、2人で午後中ジャムってた。紅茶を飲んで、外に出てミシガン・アベニューを下って行ってパン屋に行き、帰ってきて煙草を吸ってまた紅茶を飲んで地下室でジャムをやる・・・そこから始まったんだよ。

ソニック・スミス

そう、で、ダイニング・テーブルに腰掛けてた時の話だ。フレッドがそのドラマーに言ったことを俺は一生忘れないね。バンドってものが何なのか、本当の意味でまさに本質を言ったんだ。その時俺達が話し合ってたのは・・・いつもそのテーブルで、煙草を吸って紅茶を飲みながらバンドのことを話し合ってたんだよ。で、そのドラマーが「俺はあんなとこでギグをやりたくない。ああいうとこに集まる奴らが嫌いなんだ」って言った。するとフレッドは奴を見据えて言ったのさ。「あのな、あいつらも俺達と何ら変わるところはないんだよ。俺達は音楽が好きでこうやって集まり、あいつらはあいつらなりの何かが好きであそこに集まってるんだ。」この言葉は本当に一種の哲学だった。フレッドが作ろうとしてたバンドの本質を言ってたんだ。まあ、あのバンドに俺がいた頃の思い出だけどな。あの頃はもっと気軽な感じ、「ちょっと集まって鳴らそうぜ、煙草吸ってジャムって騒ごうぜ」って感じだ。「シティ・スラング」とか、その他の歌が出てきたのは全部あの後の話だ。ああいうことを始めるのは大変だったと思うよ、フレッドにとって。ってのも奴は基本的に「ラマ・ラマ・ファ・ファ・ファ」の奴、「キック・アウト・ザ・ジャムズ」のリズム・ギタリストって思われてたわけだから。

[フレッドとプレイし始めた時]ファイブのレパートリーは全くやらなかった。1曲もカバーしなかった。そう、フレッドと俺がやってたのは一種のジャズ・ロックのインプロビゼーション・ジャムで、まずいくつか基本になるフレーズを弾いて、それを変化させ応用していく。フレッドと俺の共作を1曲覚えてるよ。「ザ・グランド・リバー・サブウェイ」って曲だ。インストラメンタルのジャムで、デトロイトのダウンタウンから郊外のグランド・リバー・アベニューの方に進んで行くっていう前提で、それを音楽的に表現したすごくファンキーなやつだ。フレッドがこう言ったのさ、「じゃ、こう想像してみよう・・・俺達地下鉄に乗ってデトロイトのダウンタウンから出発する。そして郊外までずっと乗って行くんだ」クールなアイデアだろ・・・ダウンタウンのファンクとか、ロック、ブルース、そういう雰囲気から始まって、ロックになって、やがて郊外の住宅地って雰囲気になる。愉快なトリップだよ。

2曲ばかり、すごくいいレコーディングのテープが手元にあるぜ。マスターを捜してるんだけどな。俺とフレッドとデトロイト・ホウィールズのジョン・バダネクとでプロデュースしたやつだ。ほんとにすばらしいんだよ。つまり、本当にブッ飛んでるサウンド。あの時のレコーディングのテープは俺が1本持ってて、あとジョン・シンクレアも何曲か持ってるって誰かが言ってたな。あと、俺とフレッドとジョニー・Bとで「スペース・エイジ・ブルース」ってのを作った。それから曲名がないインストラメンタルの曲。全然ロックじゃなくてな、宇宙っぽい音楽。こいつは短いカセット・テープに入れて、長い間大切に身近に置いてる。その曲ではな、フレッドがものすごくすばらしい、誰も全く聴いたことのないようなギター・コードを弾いてるんだ。俺達はスリー・ピースのバンドだったけど、サウンドはすばらしく幅広く厚みがあった。だからその曲もすげェブッ飛んだサウンドだよ。

フレッドとは一緒にやっててほんとに楽しかったね。いい奴なんだよ。ほんとにクールな男でさ。他人に指図するタイプじゃない。そうしなくちゃならなかったわけだが、本当はそういうことが苦手だった。この世で一番ノン気な奴。性格って点では俺と正反対だったけど、俺達すごく仲がよかった。そのうちスコット[アッシュトン]が入って来て、あの時期、フレッドは自宅の地下室から外界に出て行こうとしてるような感じだった。スコットってのは「ミスター・ポテト」でさ。わかるか?ほんとにお気楽な奴なんだよ。フレッドを地下室から引っ張り出してギグに行かせるのはほんと、歯を抜くようなもんだったぜ!「ソニック」ってニック・ネームがどこから来たのかワケがわからないね。「超音速」なんて、あいつと正反対もいいとこさ。で、スコットがグループに入ってきたあたりで、フレッドはフレッド・ブルックスと知り合いになった。で、このブルックスがいくつかギグの仕事を持ってくるようになったのさ。俺達ギグに関してはあんまり積極的に取ろうとしてなかったから。フレッドにとってはな、誰かと取引するために家から出て行って、「なあ、俺達にギグやらせてくれよ」って言ったとして、交渉に6〜8週間かかるんだよ。で、結局交渉なんかまとまらない。わかるだろ?「ミスター・ノン気」なんだから。で、ブルックスがいくつかギグの仕事を取ってきて、その時点でスコットが入ってきて俺達何回かギグをやったんだ。

チャト?思い出せないなあ!俺はベースを弾いていっしょに回ってただけだから。ああ、チャトね。小柄な、背の低い奴だろ。ラズムッセン?ゲリーはいいプレイヤーだよ。いい奴だ。昔っから知ってるよ。年月を経てすごくいいプレイヤーになったと思うよ。何回かライブで聴いたけど、すばらしかった。だがわからんな、R&Bだから・・・俺は基本的にはR&B出身だからさ。ソニック・ランデブー・バンドが録音したレコードがあるって話だろ?あると思うよ。その頃俺はもういなかったけど。だから「シティー・スラング」のことはよく知らないし、あの曲のレコードやCDのことも知らない。その頃もう俺は参加してなかったんだから。だが最初は確かにいたんだよ。そして初期のギグを確かにいっしょにやってたんだ。

サイド・プロジェクト

ソニックス・ランデブーは、1年半か2年くらい出たり入ったりでやってたんだが、そのうちに他のことで手一杯になっちまった。他のこともやってたから、俺は。俺って人間は、必ずしも自分にとって最良のこととは限らない何かに熱中しちまうことがあってな・・・その時もバカみたいに熱中してたことがあったんだ。だからバンドのことも・・・あんまり楽しくなくなっちまって、そうなったら続けていけないだろ。

あの頃録音したテープが山ほどある。ライブの録音とか、地下室のリハとか、スタジオでのジャムとか、そういうのをたくさん持ってるよ。あいつらとジャムを始めると3、4時間はやってたね。ソニックス・ランデブー・バンドにインスピレーションを受けて別のバンドを作った時があってね、ブラザーズ・オブ・ザ・ロードってバンドだ。俺と、ピアノにハリー・フィリップス、ジョニー[モーガン]がドラムで、他にスコット・モーガン、デトロイト出身の男が一人、それからスティーブ・ダンスビーってすばらしいギタリストがメンバーだった。フレッドも何回か加わって一緒にやったこともあったが、こっちにはあんまり参加しなかった。70年代中頃の話だ。年に4、5回集まって一緒にプレイして・・・ってだけのバンドだったがな。そのうち練習も少しするようになった。どのくらい続いたかなあ、別に使命感があってやってたわけじゃないからな。ただ集まってプレイするのが楽しくて、機材をセットアップしてみんなでどこかでプレイしたり練習したりって感じで、時にはスタジオに入ってちょっと録音したりしてたわけよ。あちこちにすごい量のテープが残ってるはずなんだ。一時期マイク・ケイトンとか、ああいった奴らが現れて捜し回っていたことがあったよ。あのバンドにフレッドは参加してなかった。違うラインアップだ。スコット・モーガンとやった方は・・・奴がブラザーズ・オブ・ザ・ロードでやったやつは・・・すばらしい音楽として残ってるよ。手元にテープがあるんだ、すごい量のな。俺達が15年前にやってた音楽を今ラジオで耳にするよ。当時誰かが然るべき所に持ち込んでパッケージングしてリリースし、ある程度の宣伝も打っていたらすごく売れたと思うよ。すばらしい音楽が発表されてたはずなんだ。ソニックス・ランデブー・バンドってのは、もの凄くいろんな音楽に影響を受けてたから。単なるMC5やストゥージズの音楽じゃない、単なるデトロイト・ロックンロールじゃなかった。さまざまな影響を受けてたんだ。カントリーだってやってたくらいなんだぜ!「サティスファイング・ラブ」ってのは本当に名曲だよ。スコット・モーガンってのは卓越したソング・ライターなんだ。

ブラザーズ・オブ・ザ・ロードは、スコットがそれまでの15年で一番真剣に取り組んだバンドだったと思う。ってのも、奴も俺と似たような状況でフラフラしてたわけだけど、ブラザーズ・オブ・ザ・ロードに関してはマジに売れたいって思ってたみたいで、真剣に努力してたんだよ。作った曲と残ってるテープがそのことを証明してるぜ。奴にはメンバーを集めてバンドを運営し、そいつらと音楽を生み出す能力があったことを立証してるんだ。

[ブラザーズ・オブ・ザ・ロードは]ほんとに何曲かすばらしい歌を作ったよ。モーガンに影響を受けて俺やハリー・フィリップスも曲を書いた。モーガンのインプットは大きかったね。何曲かジョン・メレンキャンプの手に渡ったんだぜ。オリジナルなグルーブのヤツとか、インストラメンタルなアレンジのヤツを絶対メレンキャンプが手に入れたんだ。録り直して手を加えたりしたけどな、あいつのヒット曲になったのさ。ってのが、俺がバーにいると知り合いがやって来て、「今ジューク・ボックスで流れてるのはお前のバンドか?」って言うんだ。で、「いや、俺達じゃないな」って答えるとそいつが「冗談だろ、これ絶対お前らだろ。」って。つまりブラザーズ・オブ・ザ・ロードのメンバーがある時どっかで飲んでる時かなんかにメレンキャンプたちと知り合いになって、そいつらに売っちまったってことさ。わかるだろ?あの時俺達が書いた曲の一部はそうやってかすめ取られちまったわけよ。あの業界じゃよくあることだろ?ベートーベンと同じだよ。奴が始め、その後はみんながベートーベンをパクってるってことさ。モーツァルトだってそうだ。みんながみんなをコピーしてるってわけだ。

ギャング・ウォー

[78年か79年になると]フレッドと会ってプレイするってことはあんまりなくなった。その頃俺はブラザーズ・オブ・ザ・ロードの方をやってたから。その後結局、ジョニー・サンダースとウェインと一緒にギャング・ウォーをやることになったんだが。あれが実際俺がギグに参加した最後のバンドになったよ。1981年が最後だね。俺はギャング・ウォーのオリジナル・ラインアップだった。ウェインとジョニー・サンダースとな。音楽的な面ではずいぶんクレイジーなバンドだったが、とにかくちゃんとした曲を作り、それを外部に発表するって努力をしてた。続かなかったけどな、俺がいた間くらいで終わっちまった。1年半くらいかな。アン・アーバーのあるバーに行って「あんたのバーで演奏したい」って言ったら相手は「だけど、カネは払わないぜ」って答えた。で、俺は「払わなくていいよ」って言った。俺はそいつと知り合いだったんだが、まったく、結局俺達を聴こうって客で店の外に列ができたんだぜ。あのバンドではいくつかいいジャムをやったよ。よくあることだが、ほんとにデキがよかったライブは録音されて残ってないんだよな。レコーディングしたものってのは、俺が見るところでは作り過ぎてたね。ライブ録音の中には少しマシなものもあるけどな。

あのバンドはデトロイト出身のある男が企画したものだった。で、ジョニーを入れた。アン・アーバーに関してあいつに関するいい話ってのは、郊外の田舎の牧場みたいなとこに滞在させた時のことだな。ジョニーときたら、「なあ、ロン、アン・アーバーに連れてってくれよ。オレ、コンクリートが見てぇんだよ。」ってな。アン・アーバーのジョニーは手が付けられなかったね。奴が持ってた1958年型のすばらしく美しいピュイックによくあいつを押し込んだもんだよ。ほんと、ワイルドな男だった。俺んちの居間で俺の娘がジョニーの膝に抱かれてる写真があるぜ。俺のうちによく遊びに来てたのさ。1年半くらい奴の子供の面倒まで見てたんだぜ。食べさせて世話してな。ジョニーに最後に会ったのはアン・アーバーの奴の公演で、死ぬ1年半か2年前の話だよ。

何回かいいギグをやったよ。ニューヨーク、ボストン、トロント。トロントのデカいキャバレーで3〜4晩、客がすげえたくさん入ったんだぜ。ノン・ストップ・ロックンロールだ。気に入ってくれた奴もいればそうじゃない奴もいたと思うけどね。ノック・ダウン・ロックンロールよ、永遠なれ、だ。酒をくらって騒いで、この世の決まり事の前に歩み出るのさ。いつもそうだった。奴らの前に立ちはだかって、何か起こしてやる、ってな。クールだったよ!

デトロイトでの俺の音楽キャリアを振り返ってみると、いろんなことをしながら出たり入ったりしてたってことだ。わからんな、逆らおうとしたこともあれば、おとなしく相手側についてた時もある。だが要するに、エレクトリックで一風変わった音楽を、ちょっと変わった奴らとやってたってことだな。俺と音楽の関わりってのは・・・12の年から38まで、それが俺がやってた唯一のことだったんだ。音楽を食べて飲んで生きてたのさ。そいうことだ。音楽を眠り、音楽を生きたんだ。

サバイバル

すばらしい経験だったね。生きてあの体験を振り返ることができるってことを感謝するよ。大勢の仲間が死んでいった。さもなきゃ一生消えない傷を負った。わかるだろ、ロック・ビジネスがどういうものか。1980年頃からロックの世界も変わったけどな。ほんとにビジネス・ライクになっちまった。それ以前、音楽業界ってのは・・・マネージメントの連中も少しはミュージシャンを気遣ってるように見えたね。稼いでもらうためには投資の対象を守らなくちゃいけないってわかってたから、今よりミュージシャンを大切に扱ってる感じだったね。その初期の頃、俺はロックをやってたってことだろうな。

みんなの前に出て行き、そいつらに向かって音楽を演奏してたっていうのは、生涯最高の体験だったと思うよ。善かれ悪しかれ、な。いいことばかりじゃなかったけど。俺は音楽を真剣に考えていたし、練習し、習いもした。真剣に取り組んでたんだ。これまで同じバンドでプレイした奴らといっしょにやれたってことを誇りに思ってるよ。俺はいいチョッパーだったんだぜ。指一本野郎じゃなかった、意味がわかるか?俺にはそれができたんだ。音楽を奏でることができ、その音楽を気に入ってくれる人間がいるという自己満足、たまらなかったね。これだけははっきりさせとくが、本当の意味でプレイでき、それに命を張った奴らにとって、音楽は人生においてスピリチュアルなものなんだ。ビジネスじゃない!魂に命じられてやることなんだ。音楽ってそういうものなんだ。

今じゃすっかりファミリー・マンだよ。商売をやってるし、孫の面倒も見てる。デカいボートを持ってるから、しょっちゅう釣りをしたりそこらを回ったりしてるよ。家の中で孫たちとプレイすることもある。手当たり次第叩くのが好きな孫どもでね!俺がギターを弾き始め、みんなで大合唱さ!楽しいぜ!俺の場合長い間音楽に関わってたから、1980年頃ピークに達すると、燃え尽きちまったのさ。長くやり過ぎたってわけだ。14歳かそこらでプロになったら、50になるまで続けるってのは大変なことだよ。俺の場合は興味が失せたんだな。だからハーレーにまたがって、夕焼けに消えたってことさ。それが俺なんだ。

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